2011年10月20日木曜日

たまには劇場など。

パリの街を歩いてると、結構な数の劇場があります。二つのオペラ座をはじめ、オランピアとかテアトル・シャンゼリゼとか有名どころは勿論、ちょっと歩いただけでいくつもの劇場に出くわします。そんな劇場のひとつに、またもやペール・スタークが。


アテネ・ルイ・ジュヴェ劇場

1867年にパドルーによってスクリブ通りに造られた最初のホールは、スクリブ劇場と名を変えたが、1883年に接収(訳注:売却?)された。1899年にオペラ・スクエアにオープンした現在の劇場は「アテネ」の名を継承した。ルイ・ジュヴェは1934年に支配人となり、最高級の劇団とクリスチャン・ベラールの豪華な装飾によってモリエールやマルセル・アシャールの作品を上演した。1935年、ジャン・ジロドーの「トロイア戦争は起こらない」はパリ中を仰天させた。1951年8月16日、ルイ・ジュヴェはこの場所、自分の事務所で急死し、かけがえの無い大家の忘れ形見としてこの劇場を残した。

さて、と。フランス人にとってはお馴染みの名前かもしれませんが、ちょっと調べなきゃいけませんね。

パドルーというのはやっぱり指揮者のジュール・パドルーの事しょうかねぇ。
パドルーはパリ音楽院で学び、大衆が気軽にオーケストラのコンサートに行ける様、低料金で、しかも堅苦しいホールとかよりも大衆的な場所、劇場とかサーカス小屋なんかで大衆コンサーとを開いた人です。
彼が活動を開始したのが1861年、軌道に乗ってきてコンサートホールを造ったのが1867年って事?でもパドルーの経歴とか見てもこの劇場の事は書いてないなぁ…


ルイ・ジュヴェは俳優、演出家。中学の頃から演劇を志し、修行するものの演劇学校の受験に三度失敗。薬剤師の資格も取ったけれど、やっぱり演劇がやりたくてヴュー・コロンビエ劇場の創設にかかわり、出演もスタッフの仕事もこなしていました。
後、コメディ・デ・シャンゼリゼに移り、画家ルノワールの息子もこの劇団にいたそうです。後に出て来るジロドーとの付き合いもこの頃からですね。
そしてアテネ劇場へ。この頃には名声も確立して、嘗て入れなかった演劇学校の教授に迎えられたとか。岩をも通す一念ってのはこういうのを言うんでしょうか。


マルセル・アシャールは劇作家・映画監督・脚本家・詩人で、「ピンク・パンサー」の二作目「暗闇でどっきり」の脚本を書いたり、オーストリア=ハンガリー帝国の皇太子ルドルフと男爵令嬢マリー・ヴェッツェラの心中事件を題材にした小説「うたかたの恋」を映画化したりしてます。カンヌ映画祭の審査委員長も務めてますね。


そしてジャン・ジロドー。この人、外交官でもあったそうですが、まぁ、小説から脚本から、エッセイ、評論、えらい数の作品を世に送ってます。しかし作品の中に知ってるのが無いな…

クリスチャン・ベラールは画家、舞台装飾家、衣装デザイナー。ジャン・コクトーなんかとも親しかった様で、共同で舞台の仕事をしたりしてます。そしてベラールのデザインには、シャネルとかニナ・リッチなんかも影響を受けたとも言われてますが、ファッションに疎いおっさんには「どこが?」なんですけど。

シャネルのロゴのネタ元というかデザインのモチーフが、リムーザン地方コレーズ県にあるオバジーヌ修道院のステンドグラスの装飾だったとか聞くとなるほどと思えるんですけどね。

ん?劇場の話じゃなかったっけ? まぁいいか。

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