2011年8月31日水曜日

壁画?道路画?

さて、昨日予感した通り、本日は壁画のお話。
ヴェルサイユでこんな物を見かけました。

とはいえこれはちょっと特殊です。というのは「壁画」ではありますが、描いてあるところが壁ではないからです。


ラ・フォンテーヌの寓話としては、日本での知名度は今一つかも知れませんね。
「狐と胸像」というお話。
大体の意味としては、「外見だけで大物ぶって、ちょっと見はすごいかも知れないが、なぁに、よくよく見たら中身は空っぽじゃないか」という事ですね。
ロバさんは「英雄(?)」の胸像の見た目(立派な姿)だけで恐れ入ってしまいますが、頭の良いキツネさんは胸像をよく調べてみます。「頭は立派だけど、脳味噌が無いな。頭空っぽじゃないか」


「町のねずみと田舎のねずみ」
これはご存知でしょう。しかし、ここにも「ラ・フォンテーヌの寓話」と書いてありますけど、このお話、イソップですよね。それとも同じ様な話がラ・フォンテーヌにもあるのか、あるいはフランス人さんの事だから「いーや、これはフランスのラ・フォンテーヌのお話なんだ!」と強弁してるだけなんでしょうか。それとも似た様なタイトルだけど別の話とか?

で、これが描かれてるのは壁じゃなく、電力会社の管理施設や配電盤とかを収めたケース(?)です。誰かが個人的趣味で描いたにしちゃ良くできてるなぁ…などと思って見てたらとんでもない。これはヴェルサイユの「壁画学校」の学生さん達の作品の様です。ちゃんとサインが入ってました。


まぁ、ヴェルサイユですからね。こういう学校で、こういう壁画とかの技術の後継者をどんどん育てないと、宮殿を始めとする歴史遺産の維持管理ができなくなっちゃいますもんね。
ヴェルサイユの町も、こういう「壁画家」さん達にこうやって積極的に活躍の場を提供してるのかも知れません。

もう一つ、これは何やら哲学的です。


これは「壁画」ではありませんね。「道路画」?
材質が良くわからないんですが。ペイントか溶かしたゴムかなんかをたらして描いた様に見えますけど。
しかしそんな材料で(本当にそうかはわかりませんが)、これだけのイラストを?

そして二つのイラストの下に書かれた「Existe」と「Etre」の文字。
「Existe」とは存在の事ですけど、何せここはフランス、やっぱりサルトル流の用語法を用いて「実存」と読むべきでしょう。
「Etre」は英語のBe動詞に当たる言葉ですから、これを「実存」と対比した意味で「存在」と解釈すればいいのかな。
そして「実存」がヌードで「存在」が着衣である事も、これはやっぱり狙って描いてると見ましたが。

そう言えばやったなぁ。「存在」と「実存」。
サルトルの「存在と無」から「嘔吐」にかけて言うところの「対自存在」と「即自存在」を当て嵌めてもよかったかも。
ドイツだったらカント・ヘーゲル・ハイデッガー辺りの「ザイン(存在)」と「ダー・ザイン(現存在)」になってたりして。

いやー、懐かし。

2011年8月30日火曜日

orion

Honjitsu paris ni kaeru tame hayaoki.
Asa 6:00, yoru ga akekiru sunzen no honno sukoshi no aida dake alps ni kakaru orion za ga mietemashita.
Natsu demo mierundesune-

そんな訳でシャモニー滞在も終わり、今夜はパリに戻ります。
さすがにオリオン座の写真を撮るのは無理です。

で、代わりという訳でもありませんが、シャモニーで見かけた「街角のアート」など。

RELAIS(ルレ)とは馬を引き継ぎ、一休みしてまた出発する、中継地点の宿屋の事ですね。そうして次々バトンタッチして走る「リレー」の語源だとか。
RELAIS DE POSTEとはストレートというか安直というか。「郵便局の宿屋」。確かにここは町の郵便局のすぐ近く。しかし地方ってこういう素朴なネーミングが多い。「『駅』通り」とか「『教会』広場」とか「カフェ『村役場』」とか。


これは何屋さんの看板だか忘れてしまった。看板を見ると花屋さんみたいだけど、そんなのあったっけか?


これもまた分かり易いというか。「モンブラン薬局」。
二種類の看板とも壷の図柄ですが、薬を調合する薬壷をデザインしたんでしょうね。


看板だけだって上げてったらキリがないんですが、今度は壁画。というか、本当の壁画ではなくて、絵を描いた板が壁に貼り付けてあるんですが。映画館の建物の壁。


これは本物の壁画。見事過ぎて、どこまでが壁画でどれが本物の窓か、この画像を撮った本人も既に分からなくなっております。


パリの街にもこういう壁画って結構あるし。また写真取りに行こうかな。
おっと、新たなシリーズネタをゲットか?

2011年8月29日月曜日

kyoukagiri.

N-, shigoto tohaie tanoshiku sugosasete moratta chamonix taizaimo kyoukagiri.
Ashita no yoru paris ni kaeru.
Mata ano nichijou ni modoru.
Teka kaettara sokkou sentaku desu.

洗濯の事は置いといて、本日はエギーユ・デュ・ミディです。

「南を指す針」という意味ですね。町の教会の中庭から見ると、この峰が真南なんだそうで、南を指す指針の山です。

町外れの、ロープウェイ乗り場。
ここから見上げるだけで「うぇー、これ登んのかよー」という感じです。


傾斜はかなりきつい。先日のブレヴァンもそうでしたが、一度に登りきれる様な角度じゃないって事でしょうか、ロープウェイ乗り換え。


で、上の画像のロープウェイの奥に見えてる山の天辺に、こんな物があるんですが…見えますか?拡大図。


そしてその頂上の「針」の展望台には3842メートルの標識。って事はここは富士山頂より高い所なんですねぇ。高山病になる人とかいないんだろうか。確かに観光パンフレットには小さい子供とかは駄目とは書いてあったけど。


シャモニーの町がこんな風に見下ろせる訳です。この画像に写ってる展望台から見ただけでもすごかったけど、更にもう一段上から。


これだけでも腰が引けるんですけど。でもここから更に上を目指す人達もいまして。ここはモンブラン山頂アタックの出発点でもあるのですね。しかし、誰か一人足を滑らせたら一蓮托生ですねぇ。


こんな世に言う「跨いで超える様な」狭い道(?)から雪原へ。この辺になると、展望台からは、人間は豆粒位にしか見えません。


そして画面中央やや上の、屏風岩の切れ目みたいな所を抜けてその右上の山頂へ。


さてモンブランはフランスとイタリアに跨ってますが、モンブラン山頂はどっちに属するでしょうか?どっちも自分の国だと主張してます。

モンブランを挟んでフランス側にシャモニー、イタリア側にクールマユールがあり、1796年に「お互いそこから目視できる所まで領土としよう」と取り決められたそうですが、実はこれ、フランス側の陰謀だった様で、イタリア側クールマユールからは、他の山に遮られてモンブラン山頂は見えないのですね。

で、現在では一応「モンブラン山頂を国境とする」1861年の取り決めがそのまま引き継がれているものの、フランス・イタリア共、自分の国で発行する地図では山頂よりも少し先の所に国境線が引かれているとか。

第二次世界大戦後、両国が国境について再検討する機会もあった様ですが、お互いモンブランについては触れようとせず、今までの習慣による国境線が「仮」採用されたままになってるそうです。

大人の対応というべきか、後に争いの種を残したというべきか。

2011年8月28日日曜日

Kooriduke.

Kinou ha Montenvers hyouga(1913m) no koori no doukutsu(1600m), kyou ha Aiguille du Midi (3842m)kara Mont Blanc(4807m) wo nagame...
Hachigatsu sanaka toha omoenai kion no naka de sugoshi mashita yo.

いや、氷河も山頂も寒かった。どっちも画像が結構多いので本日はモンテンベール氷河の方の画像を。

こんな登山列車で…行く訳無いですよねー。これは昔の物。


現在の列車はこんな感じ。


でも、アプト式の歯車は昔のとそう変わってない。
「鉄」さん達はこういうのも守備範囲なんでしょうか。ループ式とか、スイッチバック式とか、小学校か中学校の頃習いましたね。


さて氷河に到着。登山列車の駅からロープウェイで氷河へ。ロープウェイの駅から氷河までかなりあるなぁ、と思ってたら、昔はロープウェイの駅の辺りまで氷河があったのに、段々水位…じゃなくて氷位(?)が下がってしまったんだとか。


その為、この階段は後から継ぎ足したらしい。


氷河に掘られた氷の洞窟。


氷の肌。


そういえば

「おふじさん 霞の帯を解かしゃんせ 雪の肌(はだえ)が見とうござんす」

なんて歌がありましたねぇ。
富士山にかかる霞で美しい姿がよく見えない。「その霞の帯を解いて雪の肌を見せて下さいよ…」
こういう色っぽいのって良いですねぇ。

しかし、氷位(?)の下降もさる事ながら、洞窟の中でも、こんな感じで溶け出した水が吹き出てるんですけど。


やっぱり温暖化は深刻なんだろうか。
嘗て恐竜が絶滅した氷河時代は、今と比べて平均気温はそう何度も違わなかったとか。その伝で行くと、もうすぐ地球そのものが熱帯化してもおかしくないんでしょうかね。

因みにフランス生まれフランス育ちで、夏休みの間だけしか日本に行った事が無かったうちの娘は、小さい頃「日本は熱帯に属している」と思ってたらしいです。

2011年8月27日土曜日

Nante kottai

Hiyake shite, hitai no haegiwa no koutai shita bubun dake kawa ga muketa. Hokano tokoro ha nantomonai.
Kakkowari-
Hageagatta tokorotte,soremade kaminoke de hogo sareteta bun dake hifu ga yawa nandarouka.

生え際後退の話なんか誰も読みたくないか。フン。

じゃあ時間を「後退」して、このシャモニーがあるサヴォワ地方の歴史でも見てみましょうか。

西ヨーロッパの形成の大きなきっかけとなったのは紀元前500年頃のケルト人の侵入でした。ケルト人は当時既に鉄の武器を持ち、勇猛で、乗馬も巧みだったので、先住民族を制圧してどんどんヨーロッパに侵入し、やがて先住民族と混血してガリア地方、ガリア民族を形成します。

そこへまた、シーザー率いるローマ軍が攻めて来て、紀元前52年、ガリアはローマの属領となります。パリ南部の「アレジア」の地名は、ガリア人のリーダーのウェルキンゲトリクスがとうとうローマの軍門に下る事になった最後の包囲戦があった所の地名に因んでます。
ここでラテン系が入って来ましたねぇ。

で、このガリア・ローマに更に4世紀、ゲルマン民族が侵入します。ゲルマン民族の中でも最大・最強となったフランク族が建国したのがフランク王国で、これが分裂してフランス・ドイツ・北イタリアの素になるんですが。

このフランク王国程ではないにしろ、他にもランゴバルド(北イタリアの「ロンバルディア」の地名の由来です)族やブルグンド族がいた訳ですが、サヴォワ地方はこのブルグンド王国に属していました。
ブルグンド王国は結局フランクに滅ぼされ、サヴォワはフランク領になります。

フランク王国の分裂を経て、サヴォワは神聖ローマ帝国(東フランク王国由来のドイツの素…とでも言えばいいのかな)領となりました。
この頃、王国領の端っこの方、特に異民族と国境を接する辺りは「辺境伯」と呼ばれる地方官(?)が治めたのですね。「辺境伯」はそのリスクの大きさ故に、普通の「伯」よりも大きな権限と広い領地を与えられました。普通の「伯(Graf)」に対して「辺境伯」は「Markgraf」として一段上の扱いを受けたのですね。この「マルクグラーフ(Markgraf)」の英語読みが「マルグレーヴ」で、萩尾望都さんの「マージナル」なんぞお読みになった方はご存知かと。

サヴォワ辺境伯家は初代ウンベルト一世に始まるとされ、「サヴォワ伯国」時代を経て1416年、アメデオ八世の時代より「サヴォワ公国」となります。
1701年に起こったスペイン継承戦争、それに伴って起こったアメリカのアン女王戦争の結果、ユトレヒト条約でシチリア島を手に入れたサヴォワ公国は、1720年、シチリアを手放す代わりに今度はシチリアの隣のサルデーニャ島を入手、サヴォワ、サルデーニャ、北西イタリアのピエモンテ、ニースを主要な領地とする「サルデーニャ王国」となりました。
サルデーニャ王国の都はピエモンテ地方のトリノで、トリノの「サヴォワ王家の宮殿」は世界遺産ですね。

このサルデーニャ王国が後のイタリア統一の立役者となる訳ですが、このイタリア統一に当たって、フランスの支持を取り付ける為にサルデーニャはサヴォワとニースをフランスに割譲したのですね。「プロンビエールの密約」という奴です。

やれやれ、やっとサヴォワがフランス領になる所まで来ましたね。

現在のサヴォワ地方は、登山やスキー、トレッキング、パラパントといったスポーツ、グリュイエールやトム、ボーフォールやルブロッションといったチーズや、エヴィアン、トノンといったミネラルウォーター、鉱泉、観光、カジノが有名です。

農業も盛んですよ。シャモニーの朝市。


ソーセージやハムなんかも一杯です。


そしてまたこれがすごい。ヌガーですねぇ。
「ヌガーって何ですか?」なんてよく聞かれるんですけど。日本語でもヌガーですね。
水飴、卵白、ナッツなんかを煮込んで練り固めた、言わばキャラメルの親戚みたいなお菓子ですが。


こんな巨大なヌガーは初めて見ました。普通はそれこそキャラメル位の大きさのものとか、せいぜい板チョコ位なんですけどね。この巨大な塊を見た時はチーズかと思ったんですけど。

ここのおじさんの手作りで、着色料・添加物一切無しだとか。でも半年くらいもつそうです。

パリの朝市ではこんなの見た事無いですね…パリはパリで好きですけど、地方ってやっぱり楽しい。

2011年8月26日金曜日

Ki wo tsukeneba.

Konnani mainichi shikamo hirumakara beer bakkari nonderunotte hyottoshite umarete hajimeteja nakarouka.
Fudan beer nante hotondo nomanaikedo, doumo taisei ga dekite kita rashii.

まぁ、別に飲んでるだけじゃないんですけどね。いろいろ、ちゃんと見て歩いてますよ。

こんなのもありました。何の事は無い、街の標識なんですが。


7/26にも書きましたが、日本では、施設名や地名に人の名前はあまり付けませんね。こっちでは普通なんですが。で、この標識の何が面白いかというと、その人の職業です。ミッシェル・クロッツさんはガイドさんです。
こういう人の名前のついた通りは数あれど、大抵はナントカ大統領、ナントカ将軍、ナントカ博士通りが多いんですが、さすが登山家の聖地シャモニー、山岳ガイドさんの名前が通りの名前になってる訳ですね。

ここにはスキーやトレッキングの人達もよく来ます。
今の季節なら5時過ぎに明るくなって来て、


6時前には朝焼け(?)


山から朝日が昇るのは8時半頃。


山に行く人達は、こんな時間からもう準備したり、ホテルを出たり、行動開始してるんでしょうね。モンブラン登頂の登山道へ向かうロープウェイは7時半頃から動いてます。

そしてまた、ここシャモニーはフランス東部、スイスに近い所で、ジュネーヴまで車で1時間ちょっと、そしてグルノーブルまで1時間半か2時間位でしょうか。グルノーブル近くのグランド・シャルトリューズ修道院で造られるのがリキュール「シャルトリューズ」ですなぁ。


シャルトリューズに関しては7/9の記事をご参照頂くとして。
やっぱり「ベネディクト派」の、「ノルマンディー地方」のリキュール「ベネディクティン」はこの辺のお土産物屋さんには売ってませんね。そりゃそうだ。

やっぱりそこに帰って来るかって?まぁ、硬い事言わんと。ねぇ。

2011年8月25日木曜日

Italie

Kyou ha Montblanc tonnel wo nukete italie Courmayeur he ikimashitayo.

Kankei naikedo yuube tabeta tonkatsu teishoku umakatta.

モンブラントンネルも、1999年に事故があってから長い事閉まってましたが、2002年に再開しました。
トンネルそのものは1965年に開通してますが、それ以前は物資なども山越えで運ぶしかなかった訳で、大変な大回りになってたんですね。

で、その山越えの主要ルートのひとつがサン・ベルナール峠で、紀元前217年にここを超えてイタリアに攻め込んだのがハンニバル、第二次ポエニ戦争の時の事です。
そして1800年、ナポレオンが同じくこの峠を越えてイタリアへ。

1796年、ナポレオンはオーストリアによって占領されていたイタリアを取り戻しました。そしてそのままオーストリアまで攻め込み、政府の承諾も得ずに独断で「カンポ・フェルミオ条約」を結んで北イタリアとベルギーを手に入れた訳ですが…結構ムチャクチャやる人ですね。ま、その位の型破りでなきゃでかい事はできないって事でしょうか。
しかしその後ナポレオンのエジプト遠征中、対仏大同盟軍(オーストリア・プロイセン・ロシア等)が大反撃に出てフランスは再びピンチになります。

そしてパリに戻ったナポレオンはブリュメールのクーデターで政権を奪取、国内政治の安定に努め(国民銀行設立、税制の公平化、教育機会均等化、公共事業奨励による失業対策、そしてナポレオン法典の整備等、ナポレオンの国内政治は結構高く評価されてます)、更に1800年、アルプスを越えて攻め込み、イタリアを取り戻しました。

ところで、この話にはオチがありまして。
ナポレオンの戦争のスタイルは、最初は必要最低限の物だけ持って行き、その後は現地調達するという物でした(だからロシア遠征時には焦土作戦でやられちゃった訳です)。
で、このアルプス越えの時も同じで、峠越えの直前に地元で大量の食料を仕入れました。
略奪同然に持って行ってしまう事もあった様ですが。
この時は食料を「買い取った」のですが、支払いはお金ではなく借用書でした。
この「借用書」の「借金」が完済されたのは…1984年ミッテラン大統領時代でしたとさ。
180年越しの借金か。

そしてまた、この「サン・ベルナール」の名前からも判る様に、ここは救助犬「セント・バーナード」の名前の由来の地でもありますね。フランス語読み「サン・ベルナール」、英語読み「セント・バーナード」です。

とりあえず脱線はこの位にして、画像など。


やっぱり国が変われば風景も、建物も違いますねぇ。

こんなのもありましたよ。イタリア語だからさっぱり読めないけど、察する所、3700から2200万年前に、全長8メートル、全高5.5メートル、体重16-20トンのこんな生物が氷河地帯に棲息してた様ですね。


象か何かのご先祖様でしょうかね。

そして残念ながら、トンカツ定食の画像が何故か消えちまったぜ。

2011年8月24日水曜日

Beer

Kinou ha Brevent no 2525m no tenboudai ni itte beer wo nonde kimashitayo.
Iya chanto keshiki mo nagametatteba.

そんな訳でブレヴァン展望台。

しかしこんな所にロープウェイで一気に(とは言っても乗り換えはありますが)上るのかよ。
山頂にロープウェイの発着所が…見えますか?


さてロープウェイ乗り換え。


もう一回上ると…さっきの乗換駅が遥か下に。
登山道(?)らしき物もあるけど、ここまで登るのにどの位かかるんだろうか。


当たり前だけど、周りは山また山。


モンブラン山頂は雲の中。


山頂から流れ出る(?)氷河。


で、やっぱりこれかい。シャモニーの地ビール。味は…微妙。

2011年8月23日火曜日

chamonix

Chamonix shucchou desu.
Nihongo nyuuryoku dekine-zo-
Gazou mo up dekin.

で、帰って来たので追記&画像UP。

まずはジュネーヴへ。フランス国内の移動なのに一旦スイスへ行くとは変な気分。
スイスに着いた途端にごみの分別がきちんとしているので思わず笑ってしまいましたよ。やっぱりスイスはフランスと違って真面目です。フランスは(家庭ごみには分別があるが)街や空港のゴミ箱なんかではまだまだ分別は無きに等しい位遅れてますねぇ。


さて、ジュネーヴから車で一時間。シャモニー着です。まぁ、他の来方もあるんですがね。今回はそういうルート。

ホテルからも、


「シャモニー・モンブラン」駅からも、


町の中心の教会からも、


とにかく山また山。あたりまえか。

シャモニーはモンブランの麓の町であり、1786年のモンブラン初登頂は近代登山史の幕開けとなりました。よってここは登山家さん達の聖地でもありますね。

初登頂を果たしたのはミッシェル・ガブリエル・パッカールさんとジャック・バルマさん。
パッカールさんは医師であり、植物・鉱物学者でもありました。


もう一人のバルマさんは山の猟師でもあり、水晶採りでもあり(水晶はこの辺の名産です)、またその豊富な山の経験を生かした山岳ガイドでもありました。


で、バルマさんが「ほら、あれがモンブラン山頂ですよ」と指し示している(この銅像の指差す先は本当にモンブランの方を向いてます)のが、モンブラン初登頂のもう一人の立役者、オーラス・ベネディクト・ド・ソスュールさんですね。

ソスュールさんは植物・地質・気象学者で、自らも調査旅行でいろいろな山にも登ってますし、モンブラン初登頂に懸賞金をかけた人でもあります。パッカールさんとバルマさんの初登頂の翌年、自身もモンブラン登頂を果たしてます。

このソスュール先生の多岐に亘るアドバイスが無かったら、いかに優れた学者パッカール先生でも、山を知り尽くしたバルマさんでも、登頂は難しかったんじゃないか、とも言われてますね。

しかし良い事ばかりでもなかった訳で、初登頂後、パッカールさんは雪の乱反射で目を完全にやられてしまい、ずっと目を閉じたままの下山でした。
そして、麓の町に帰って来た二人を待っていたのは、パッカール先生の患者さんでもあったバルマさんの娘、ユディットさんの訃報だったのですね。

男が山で死んで、残された女は…というのはドラマや小説によくある設定ですけど(おっさんとしては「風」?「かぐや姫」?「パンダフルハウス」?「イルカ」?の名曲「あいつ」なんぞを思い出しますが。中学生の時、文化祭バンドでやりましたなぁ。)、これもまた悲しい話です。

「そこに山があるからだ」とは有名な台詞ですが。「山で死ぬなら本望だ」とも言いますが。
今でも、登山客からの要請で、多い時には一日に10回以上レスキュー隊が緊急出動するとか。
それでもやっぱり魅力的な山なんでしょうねぇ。根性無しのおっさんにはとても真似できませんが。