2011年12月31日土曜日

まず片方。

さて、リエージュ駅の続き、この駅の目玉と言ったらこれです。上り・下り線のホームにそれぞれ9点ずつの壁画。


ブルー・トーンのリエージュ風景

ダニエル・ヒクターのタイル壁画 
ウェルカンラート国立陶芸院(訳注:公式にはなんと言うか存じませんが、取りあえず意味の上では合ってると思います)

この駅を飾る18点のタイル画は、図柄の上からエナメルをかけた6576枚のタイルで構成されており、これらはリエージュ出身の二人の芸術家マリー・クレール・ヴァン・ヴュシュレンとダニエル・ヒクターの二人ののデッサンの下、ウェルカンラート国立陶芸院によりベルギーで製作された。
このホームにはリエージュ地方の風景や有名な記念建造物を建築家ダニエル・ヘクターが青を基調に描いている。アンブレーヴ渓谷、レ・ファーニュ、ジレップ堤防、モマーユのロマネスク教会、ル・ランブール、ジュエ・ボドニェ城、ショキエ・スュル・ムーズ城、スパ・フランコルシァンのサーキット、リエージュ司教領宮殿である。

実際に壁を飾る作品の順序とこの案内板に記載されてる順序が違うんですけどね。ま、フランスじゃよくある事さ。


フランス語でアンブレーヴ川、ドイツ語ならアメル川ですね。

http://en.wikipedia.org/wiki/File:Waterfalls_of_coo_belgium.jpg

いや、なんかそのまんまじゃないか?


レ・ファーニュって、何と言うか尾瀬みたいな所ですね。


ジレップ川の水を堰き止める堤防。

http://fr.wikipedia.org/wiki/Fichier:La_Gileppe_15-04-2007_17-11-26.jpg

面白いですね。


案内板と作品の画面に書かれた地名が一致してませんが。正確にはモマーユ地方のエベ教会なんでしょうね。(多分こう発音するんだと思います)


ランブールはフランス語読み、日本ではリンブルクと言いますかね。リンブルク語という独自の言語を持った地方です。アーヘン(ドイツ)、マーストリヒト(オランダ)、リエージュ(ベルギー)に囲まれた辺りですね。


この城は12世紀頃の記録に既に載ってるそうですが、現在のベルギー・ルネッサンス様式のものは16-17世紀に建てられてます。


これもシャトーと言うのだろうか。どっちかと言えば「岩山の上の館」って感じなんですけど。


このサーキットを走った人達が投稿した動画が結構You Tubeなんかにも出てますね。


トリはやっぱりこれ?司教領と言うのは司教を君主とする小国家みたいなものですね。その宮殿ですから、ラストに持って来たい気持ちもわかろうと言うモノです。

さて、本日はここまで。明日は対向車線(?)です。

一駅に足かけ二年かかるのか。では皆様良いお年を。

2011年12月30日金曜日

という事でリエージュ。

そんな訳で、リエージュ駅はここひとつだけで取り上げないとね。


地下鉄13番線リエージュ駅です。


南北線

この駅は1905年、技師ジャン・バティスト・ベリエの主導で創設された旧南北線に属している。南北線には2系統があった:ポルト・ド・ヴェルサイユ-ジュール・ジョフラン間(A線)1910年開通、そしてサン・ラザール-ラ・フルシュ-ポルト・ド・クリシー/ポルト・ド・サン・トゥアン間(B線)1911年開通。
パリの人々は、ここに乗客の好評を得るための努力を惜しまない地下鉄を見出したのだった。車両は様々な色で飾られ、地下鉄の入り口はギマールの手になるアール・ヌーヴォースタイルとは一線を画す錬鉄の手摺りと陶器の帯状装飾で飾られていた。
この両線は同一の切符で相互に乗り換える事ができた。1930年、南北線網はCMP(パリ地下鉄道会社)と合併し、A線は12番線に、B線は13番線となった。

この同じプレート、12番線のRue du Bac駅でも見かけました。当然ですが。

そして同じく12番線セーヴル・バビロン駅にあったのと同じ古風な駅長室。


駅長室

メトロの初期の頃、そして1970年代まで、駅長はホームにあって、ホームの様子と電車の動きが見渡せる事務所を使っていた。この駅長室の建築デザインは駅によってそれぞれ違っていた。カマボコ型天井の中に紛れ込んでいたり、または特別な装飾でそれとわかる様になっていたりした。全体にガラス張りであり、小型の電話交換台と、運行用のいくつかの装置のスイッチなどがあった。
地下鉄網の近代化に伴い、駅長の業務も変わって行った。監視業務は現在では駅の設備を駅員が遠隔操作・管理できる通信設備がある券売窓口から行っている。古い駅長室は少しずつ取り壊されたり、展示用のウィンドウになっている。

そしてこれもセーヴル・バビロン駅と同じ物ですが。


南北線の装飾

この駅は地下鉄網の中でも珍しく、南北線時代の装飾を残す駅である。南北線は、CMP(パリ首都圏鉄道会社)によって敷設された地下鉄網に対抗して技師ジャン・バティスト・ベルリエによって1905年から作られ、現在は12・13番線になっている二つの「南北線」はCMPのものよりいっそう洗練された設備によって差別化を図っていた。
例えば、青地に白で示された駅名はCMPでは七宝を施した鉄板だったが、南北線では陶製のタイルだった。軒蛇腹は普通の駅では茶か青だったが、乗換駅では緑になっていて見分けられたし、駅名は飾り縁に囲まれている。NORD・SUD(北・南)を表すNSのロゴは広告の額縁部分に配置されている。
カマボコ型天井それ自体も装飾され、元々の行き先の表示がトンネル上部のアーチに陶製のタイルで示されている。


で、ここまではセーヴル・バビロン駅と同じなんですが、リエージュ駅の面白い所はこれからなんですねぇ。

さて、ここまでだけでも結構長くなっちゃいましたね。という事で「続く」。てかその続編の方が目玉なんですけどね。

2011年12月29日木曜日

♪上り詰めたらあとは下るしか無いと…♪

さだまさしさんの「飛梅」。
この頃のさださんの歌って、まだ悲しい歌が結構多いですねぇ。

同じアルバム「風見鶏」に収録の「つゆのあとさき」とか。
お馴染みWIKIさんによると、「タイトルは永井荷風の小説『つゆのあとさき』から採られたが、歌詩(さださんは「作詞」じゃなくて「作詩」なんですよね)と小説には関連は無い」とありますが、そーかぁ?
彼女に浮気され、結局彼女は新しい男を選び自分の許から去って行く。その彼女を『僕を卒業して行く』んだと、WIKIさんに書いてある通り「誠意」も勿論ありますけど、意地でも笑顔で見送ってやるという男の痩せ我慢を感じませんか?

それはさておき。ヨーロッパ地区の続き、今度は下り坂です。

さて、サン・ラザール駅の西側、ローマ通りを上り、バティニョル大通りまで出たら右へ。線路を跨ぐ陸橋を超え、右を見ながら進むとモスクワ通りがあります。モスクワ通りは途中、ベルン通りと枝分かれしてますね。


通りをひとつとばして次がトリノ通り。北イタリア、嘗てはサルデーニャ王国の都だった所ですね。サルデーニャ王国については8月のシャモニーの記事をご覧頂きましょう。


このトリノ通りに入り、次の角を左に曲がればフィレンツェ通り。フランス語でフローレンスですね。所で、パリのイタリアンレストランで、フィレンツェ風「Florentin(フロランタン)」というと、何故か大抵ホウレン草を使った料理なんですが。名産なんでしょうか。


フィレンツェ通りを突き当りまで進んで更に左折。サン・ペテルスブール通りに出ます。嘗てのロシア帝国の都。船戸与一さんの「蝦夷地別件」にも出て来ました。日本語ではサンクト・ペテルブルクですかね。昔はレニングラード通りでした。サン・ペテルスブールはソ連時代にはレニングラードと呼ばれてましたからね。レニングラード通り時代の事はおっさんも覚えてますけど、その前はやっぱりペトログラード通りと呼ばれてたんだろうか。


そしてクリシー広場に出る訳ですね。ロータリーの真ん中に建つのはモンセー元帥のパリ防衛戦の記念碑。この辺は11/5、そしてそのすぐ近くに嘗てあった「カフェ・ゲルボワ」については5/3の記事をそれぞれご覧下さい。
クリシー広場から、アムステルダム通りの入り口を一旦通過してクリシー通りへ。左側、最初の角がブリュッセル通り。ブリュッセルも出張ネタでいろいろ書きましたから、お手数ですが10月の記事へどうぞ。ブリュッセル通りはパリ9区になりますね。今まではずっと8区だったんですが。


さて、8区のアムステルダム通りに戻ります。サン・ペテルスブール通りとクリシー通りの間の道です。アムスに行ったのなんて何年前だろうか?まだ子供がいなかった頃、2、3日休みがあったんで、家内と「行ってみようか?」なんてノリで、当時在来線の急行で7時間以上かけて行った覚えがあります。今なら新幹線「タリス」がありますから4時間もかからない。便利になったもんです。


アムス通りを下りつつ、左手にはパルマ通り。
かなり前の話ですけど、サッカーの中田英寿さんが一時パルマにいましたね。
パルマハムも良いですねぇ。正確にはプロシュット・ディ・パルマと言うんだそうですが。日本ではイタリアの生ハムをプロシュット、またはプロシュートといいますけど、実際はプロシュットと言うのはハムの事で、生ハムはプロシュット・クルードと言うんだそうです。フランス語でもジョンボン・クリュです。意味は同じですね。
イタリアワインも良いですよ。キャンティが有名ですけど、キャンティよりも安くて、味では決して負けてないのがヴァルポリッチェラです。パルマがあるエミリア・ロマーニャ州の東隣、「ロミオとジュリエット」の舞台となったヴェローナがあるヴェネト州の名産ですね。
生ハムにイタリアワイン。これ好きだわー。

序でに言えば、プロシュット・ディ・パルマ、中国の金華火腿(日本で言う金華ハム)と並んで世界三大ハムに数えられるスペインのハモン・セラーノと、同じくスペインのワイン、リオハ。このコンビも最強ですなぁ。


更に下ると右手にブカレスト通り。ルーマニアワインもまた有名ですねぇ。
何か「酒飲み」スイッチ入ってないか?モルダヴィア・ワインに、ニンニクのきいたルーマニア料理。んー。そういえばルーマニア料理の老舗「ダリエ」さんは表参道に引っ越したんだそうで。日本にいた頃(だから「ダリエ」さんはまだ銀座にありました)、当時の彼女と…行った覚えがあるな…しかしドラキュラの故郷トランシルバニアを抱えるルーマニアですからね。この位ニンニクを食べないと人間は生き残れなかったのかも知れない。


そして次の交差点では、さっきのモスクワ通りが下って来て合流し、同じ交差点でリエージュ通りとも交わります。リエージュってあまりお馴染みではないかと思いますが、ベルギーの町ですね。


日本でも流行ったベルギーワッフル。日本ではふわふわの物が多かった様ですが、中がみっしり詰まったしっかりしたワッフルをリエージュ風と言いますね。フランス語でゴーフル・リエジョワ。こんなの。チョコ有りと無しバージョン。


これまたおっさんの好物であります。今度は甘い物スイッチか?

で、リエージュで途中下車と言うか、寄り道する予定ですのでとりあえず今日はここまでにして、明日リエージュ特集です。

2011年12月28日水曜日

ヨ-ロッパツアー。

別に「ヨーロッパ周遊」出張に出る訳じゃありませんよ。(そんなのがあったらいいなぁ。)

サン・ラザール駅の裏を一回りするだけです。駅そのものについては9/27の記事をご覧頂きましょうか。サン・ラザール駅の北側一帯は「ヨーロッパ地区」と呼ばれ、ヨーロッパの都市の名前をつけた通りが沢山ありますのでね。ちょっと時間ができたから歩いてみようかと。

スタート地点はサン・ラザール駅前南西側、「Court de Rome」ローマ広場です。


サン・ラザール駅の西側に沿って進むとローマ通り。


以前、日本から見えた方に「この、オペラ座の西側を…」と言ったら、「東西南北言われても分からないっ!」と怒られました。いや、地図ってのは上が北ですからね。西側と言ったら地図上の左側ですよ。こういう人に限って、右左で説明すると、なんかとんでもない方向を基準にしてそこから左右を考えて、結局迷うんですよね。

それはさておき。
すぐ左側(西側って事ですよー)にはストックホルム通り。


右側には駅構内が見えます。


更にローマ通りの坂を上ればウィーン通りが。フランス語ではヴィエンヌですね。ドイツ語でヴィーン、これを英語読みしたのが日本でお馴染みの読み方「ウィーン」です。
所で、クロワッサンやパン・オ・ショコラ等の菓子パン(?)をヴィエノワズリー(ウィーン風菓子)といいます。これはマリー・アントワネットがオーストリアから嫁いで来た時に伝わったものだからそう呼ぶんだと聞いた事があります。


そして更に上り、左側にはマドリッド通り。マドリッド通りを進むと、途中からリスボン通りと名を変えます。やっぱりスペインとポルトガルってセットなんだろうか。


一旦ローマ通りに戻り、更に北上。次の変形交差点ではローマ、エディンバラ、コンスタンティノープルの三つの通りが交差してます。コンスタンティノープルってヨーロッパなんだろうか。まぁ、東ローマ帝国の都ではあったけど、今はトルコのイスタンブールになってる訳ですしねぇ。そういえばトルコのヨーロッパ連合加盟問題はどうなったんでしょうか。サッカー協会やオリンピック委員会の組織なんかではトルコはすでにヨーロッパに含まれるんだそうですが。


そのすぐ先がナポリ通り。1492年、コロンブスはアメリカ大陸に到達します。そこで現地の風土病を貰って来てしまいました。コロンブスがヨーロッパに持ち帰ったのが「梅毒」です。梅毒はヨーロッパに広まり、更に1512年には既に日本での感染が確認されてるそうですから、凄いスピードで世界中に広まった事になりますね。1494年、シャルル八世がイタリアに攻め込み、ルネッサンス芸術に驚嘆して、イタリアの芸術家や職人をフランスに連れ帰る訳です。シャルル八世、ルイ十二世、そしてフランソワ一世の時代にフォンテンブロー派の芸術が花開く事になりますが、このフランソワ一世は梅毒で死んだと伝えらていますね。
この梅毒、フランスではイタリア遠征の時に「うつされた」ナポリ病、イタリアではフランス軍が「持ち込んできた」フランス病と呼ばれたんだとか。責任のなすりあいか。


ナポリ通りのすぐ北側がコペンハーゲン通り。この辺りから先にはヨーロッパの都市の名前の通りはありませんから、ここらで方向転換ですね。もうかなり北へと上ってまして、ここからモンマルトルの丘の入り口、クリシー広場もそう遠くありません。


ほら、もうこんなに上って来た。

ここらで休憩。下りは明日。

2011年12月27日火曜日

トリ。

一泊の出張のネタとは思えないナント・ロッシュ編のトリです。

そう、ナントに行く事があったらここに行きたいと思ってました。


「50人の人質」通り。お察しの通りストーリーがあります。

元は沼地だったこの場所に、ナントの町の発展と共に、新たな市街が造られて行ったのが13世紀頃です。その頃はまだ、ナントの町を突っ切ってエルドル川が流れていました。
「西フランスのヴェニス」と呼ばれたナントの町から水路が消え始め、埋め立て工事が始まるのは20世紀に入ってから、特に1929年のエルドル川とロワール川支流部分の埋め立て工事は大規模なものでした。この辺は12/14の記事を御覧頂きましょうか。ある程度の船なら航行できる地下水路なんかもあるんだとか。


そしてブルターニュ大公城の城壁の解説にも有る通り、「二つの世界大戦の間の時期」つまり1929年のこの工事に携わったのはドイツの建築会社でした。第一次世界大戦の戦後補償の一環だったんですね。そしてこのときに工事の指揮を執ったのは技師のカール・ホッツでした。


埋め立て工事は終わり、ホッツはドイツへ帰ります。そして第二次世界大戦。
フランスを占領したドイツ軍のナント方面司令官として1940年にこの町にやって来たのは…ホッツでした。当時のナントの町の基礎を造り上げた人ですからね。この町の事を知り尽くした彼は司令官として適任だったんでしょう。しかしホッツは1941年10月20日、ジルベール・ブリュストラン、マルセル・ブルダリア、スパルタコ・ギスコの三人のレジスタンス兵によって暗殺されてしまいます(レジスタンスについては3/9、8/2、11/17辺りをご参照下さい)。そしてその報復として、48人のナント市民がナチスの手によって処刑されたのでした。


人の世というのは何でこういう風になっちゃうんでしょうね。戦後補償の為であれ、ナントの町に多大な貢献をした人じゃないですか?増して、工事を終えたホッツがドイツに帰ったのは1933年、それから10年も経ってません。当時を知る関係者だって多かっただろうに。「やぁ、司令官なんて言うからどんなコワモテが来るのかと思ったら、あんただったのか!元気だったかい?」なんて話には…やっぱりならないんでしょうかねぇ。まぁ、実際にホッツを暗殺したレジスタンス兵達はパリの部隊の所属だったそうですが。

そして広場の名前「50人の人質」に対して、実際処刑されたのは48人。どういう事情でかは定かではありませんが、50人のうち2人は助かったんだそうです。

それにしても。松田優作「探偵物語」最終回の長回し、「何でみんな殺しちゃうんだよ…」なんていう台詞をふと思い出しましたが。


おっさんが行った時には、この50人の人質の名前を刻んだ記念碑の台座に、学生さんらしき若い人達が、近くのハンバーガーショップで買って来たらしい包みを広げて談笑してました。この記念碑の意味が、それだけこの町の人々の中に自然に受け入れられてるって事でしょうか?それとも忘れ去られてるんでしょうか。


フランス共和国
1940-1944年の間、フランス国政府と呼ばれるものの名の下に行われた人種差別、ユダヤ人排斥主義による迫害、人道に対する罪の犠牲者達の記憶に捧げる。
決して忘れてはならない。

フランス共和国でなく「フランス国」というのはヴィシー政権、南フランスを中心に作られたドイツの傀儡政権の事ですね。11/17の記事を御覧頂ければ。ナントの町があるフランス西部大西洋沿岸地域はヴィシー政権の勢力範囲ではなくドイツ軍直接支配地でしたが、「ドイツにやられた、支配者ドイツによって強制された」だけでなく、そこに協力するフランス人も確かにいた訳で、フランス人は占領され、支配されていたから「従わざるを得なかった」だけで済む話ではないのでしょうね。

やっぱりフランスにも日本で言ったら白洲次郎とかに当たる様な人っていたのかな?結構興味があったりして。

さて、これでナントの町を後にして、パリへ帰ります。


ナント土産といったらやっぱりこれかな。


と言ったって結局自分で飲むだけですけどね。