2011年10月17日月曜日

トリプルダブルですねぇ。

今日のタイトル、バスケに興味無い方、ゴメンナサイ。

さていきなりこれです。


ここに、建物と庭園を合わせて西はサン・トノレ通りの229番地まで、南はチュイルリーにまで延びる、パリで最も大きく最も美しい館のひとつが建てられた。国務院のメンバーでありコルベールの叔父でもあったアンリ・ピュソールによって1687年に建てられ、1711年に後にフランス元帥、国務大臣となるアドリアン・モーリス・ド・ノアイユに買い取られた。彼は館に自らの名を与え、シャルパンティエに庭園をデザインし直させ、ラシュランスに改造させた館を豪華な美術館で埋め尽くした。礼拝堂では1774年4月11日、彼の孫娘の一人がラ・ファイエットと結婚した。1802年には第三統領(訳注:統領政府については昨日の記事参照)ルブランの住まいとなり、1814年にノアイユの館は持ち主に返還されたが、1830年以降分割され、取り壊された。

おいおい、ノアイユの館がいきなり取り壊されちゃ困るんですけど。ネタそのものが成立しなくなっちゃうじゃないか。
しかし、「西は229番地まで」という言葉を手がかりに地図と照らし合わせてみると、嘗てのノアイユの館の4割程度は現存しているが、残りは壊されてしまったという事の様ですね。

で、現存する(多分そういう事だと思う)部分を占めているのがホテル「サン・ジェームス&アルバニー」ですね。


凄いですねぇ。


中庭もあって、


回廊を廻り込んで行くと、


西側の7月29日(29Juillet)通り側にも門があったり、


北側のサン・トノレ通りまで。これが元の大きさの四割って、元はどんだけ凄かったんだい。
増してここはホテルとして建てられた訳じゃなく、個人の家だったんでしょう?そらぁ革命も起こるわな。

歴史も凄い。館も凄い。ダブル・ダブルです。
そして三つめ。


この館で、1779年2月15日、アメリカから帰還したラ・ファイエット将軍と王妃マリー・アントワネットとの会見が行われた。

ラ・ファイエット将軍もまた、昨日のシェイエスなんかと共にフランス革命初期の指導者の一人です。他にもミラボー、マラー、ダントン、ロベスピエールとか。

1775年に起こったアメリカ独立戦争にフランスが参戦したのは何故か?色々言われてる様ですけど、イギリスの力を奪って、更にアメリカに恩を売って、一石二鳥みたいな感じだったんでしょうかねぇ。しかし結局当時のフランスの力では、まだイギリスをどうこうできる様な状態じゃなかったんですね。アメリカの独立は1783年に承認されますが、イギリスは依然強国であり続けましたし、フランスはと言えば只でさえ火の車だったのに、アメリカ遠征で更に多大な出費を強いられただけの事でした。

この財政難(勿論ルイ14世の贅沢やヴェルサイユの建設、植民地戦争、ルイ15世時代には多くの植民地を失っていたにも拘らず、ルイ16世時代にも浪費の限りを尽くしていた事が主因ですが)がフランス革命の火種になる訳ですね。

三部会(税制について決定権のある唯一の議会)で、第一身分(教会)第二身分(貴族)と第三身分(平民)の間で議決を巡ってトラブルが起こります。それまで税金を払わなくて良かった第一・第二身分にも税金を払わせる様に要求した第三身分でしたが、それまでのしきたりは身分ごとに一票というもので、支配階級の第一身分と第二身分から一票ずつ、計二票の反対票、被支配階級の第三階級から一票の賛成票、これで投票が成り立つ訳がありません。

高級僧侶は特権階級でしたが、人々の暮らしに根ざした下級僧侶もいましたし、貴族の中にもゴリゴリでない自由主義の貴族もいた為、一人一票制に持ち込めれば第三身分も勝ち目はありました。この投票方法をめぐって三部会はストップ、対立が激しくなっていきます。

とうとう武力対決となった時に市民軍司令官となったのがラ・ファイエット将軍でした。そしてアンヴァリッドにあった銃が市民軍の手に渡り、更に火薬を求めて市民軍はバスティーユへ…という事ですね。

革命勃発後は、ラ・ファイエット将軍は立憲王政派で、共和派とは対立していました。1792年に共和派が躍進すると、ラ・ファイエット将軍はさっさとオーストリアに投降して亡命しちゃいます。その後またいつの間にやら戻って来てたりもするんですけど。

ラ・ファイエット将軍とマリー・アントワネットとの会見の場。フランス革命前史の証人みたいな館ですね。

トリプル・ダブル。

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