2011年5月31日火曜日

素直にテニスの話を書く訳が無い。

始まりましたねぇ、ローラン・ギャロス。全仏オープンと言うよりもローラン・ギャロスと言った方が通じるんじゃないでしょうか。先日ギャラリー・ラファイエット・デパートに行ったら、やっぱり置いてましたよ、ローラン・ギャロス・グッズ。

フランスに来たばかりの頃、日本から「今度パリに行くお客さんの為に、ローラン・ギャロスのチケットを取れないか」という指示が来まして。テニスに関しては全く何も知らないおっさんは、アシスタントのフランス人の女の子に「ローラン・ギャロスって何?」と聞きました。「ええっ!?知らないの!?」「知らない」「テニスよ、テニス!」「テニス?ふぅん、で、ローラン・ギャロスってのは何なの?テニスのプレイヤーなの?」「え?うーんと…多分ね」「多分って何だ、人の事をローラン・ギャロスを知らないのかってあんなに驚いたくせに、自分も知らないのか?」
非常に不毛な会話をしました。その後、ローラン・ギャロスとはテニスのスタジアムの名前であり、そのスタジアムで行われる大会である事をやっと理解したのですよ。

おっさんはローラン・ギャロスがテニスの何かであると判った時点で、ローラン・ギャロスというのはテニスの有名な選手で、その選手が出る試合のチケットが欲しかったのかと勘違いしたので、上記の質問をした訳ですが、帰って来た答えは「多分」。アシスタント嬢も知らなかったらしいですね。後日調べたら第一次世界大戦のエースパイロット、飛行家の名前でした。

地名や施設の名前に人名を付けると言うのは日本では余りやりませんね。こちらでは当たり前。パリの空の表玄関は「シャルル・ド・ゴール空港」ですし、国立近代美術館は「ジョルジュ・ポンピドー国立美術文化センター」の中にあります。国立図書館は「フランソワ・ミッテラン図書館」ですし、フランスの海外領、インド洋にあるレユニオン島には「ローラン・ギャロス空港」があります。そう、このローラン・ギャロスさんはレユニオン島出身なのですね。
5月1日にも書きましたけど、ローラン・ギャロスは1913年に地中海横断飛行をしとります。

その四年前、1909年にはルイ・ブレリオがドーバー海峡横断飛行に成功してますね。約40Kmの海峡を32分で飛んだそうですが。パリにありますよ、ミラボー橋の16区(西)側に「ルイ・ブレリオ河岸」。

ローラン・ギャロスの地中海横断飛行から一年、第一次世界大戦です。
世界初の空中戦というのは、当時まだ風防ガラスなどは無く、オープンカーならぬオープンプレーンだった訳ですが、拳銃で撃ち合って(当たる訳が無い)、お互い弾丸も尽きて、拳銃を投げつけ合って分かれたそうですが。
その後、操縦席に機関銃を取り付けた飛行機が発明されました。ところが、機関銃を発射した途端、自分のプロペラを撃って墜落したそうです。で、当時は複葉機だったので、二枚羽の上側の翼の上に機関銃を取り付け、引き金に紐をつけてトイレの水を流すみたいにして(例えが古いな)空中戦をやったとか。

これを覆したのがギャロスでした。彼は操縦席に機関銃を取り付け、更に弾がプロペラに当たったら弾き飛ばす為の金属製のガードをプロペラの銃口にあたる部分に取り付けたのでした。複葉機の上の翼に機関銃が無いから、武装してるとは敵は気付きません。更に操縦席から直接撃てるから命中精度も上がります。
その後ギャロスが撃墜されると、このアイデアはドイツにばれてしまいます。更に、プロペラが通過した直後に弾丸が通る様に機関銃とプロペラをシンクロさせる技術も開発され、更に兵器としての飛行機は発展するんですけどね…

ヨーロッパの飛行機の歴史上、もう一人の重要人物はサントス・デュモンですね。彼は1906年、動力飛行機によるヨーロッパでの初飛行に成功してます。
アルベルト・サントス・デュモンはパリで飛行船を研究し、1901年には飛行船「エアシップ6号」を開発、エッフェル塔を一周するコンテストで優勝して大スターになりました。

「空を散歩する」事にこだわり、飛行船に乗る時でも無粋な作業着など着ずにお洒落をして、シャンペンを欠かさなかった男。(飲酒運転、いや飲酒操縦じゃないか?)

ライト兄弟に続き動力飛行機ヨーロッパ初飛行を達成した男。ライト兄弟の初飛行から僅か3年、1906年にはもう自分の飛行機「サントス・デュモン14-bis」を完成させています。

カルチエが「サントス・ウオッチ」を捧げた男。当時は懐中時計の時代。女性用か、軍隊用の実用一辺倒の腕時計はありましたが、紳士用腕時計というのはまだありませんでした。操縦しながら、両手が塞がった状態でも使える、しかもお洒落な、紳士用腕時計の誕生です。

「飛行機を戦争の道具にしないでくれ」と国際連盟に前代未聞の嘆願をした男。
そして彼は飛行機の兵器化に心を痛め自らの命を絶ちます。

「空飛ぶ男 サントス・デュモン」 ナンシー・ウインターズ著 御一読を。
彼の記念碑はパリ郊外ブローニュに今もひっそりと立ってます。

2011年5月30日月曜日

おっさんは結構シャーロキアンですよ。

さて、今日はホテル・デュ・ルーブルのお話。

ルーブル美術館のすぐ前、オペラ大通りの両端、オペラ座と向かい合う様にして建っているのがホテル・デュ・ルーブルです。フランス語はHの音は発音しませんので「ホテル」でなく「オテル」になるんですけどね。
シャーロキアンさん達には面白いホテルじゃないですかね。このホテルのロビーには「シャーロック・ホームズの計略で、このホテルで国際スパイのフーゴ・オバーシュタインが捕まった」というフランス・シャーロック・ホームズ協会の認定証が掛かってます。そんな協会があったんですねぇ。
このオバーシュタインさんは「ブルース・パティントン潜水艦建造計画」の話に出て来ます。世にも珍しい事に、マイクロフト兄さんがベーカー街に持ち込んだ事件ですね。

日本でも力石徹やラオウの葬儀が行われたとか、架空の人物を実在した様に扱う事がありますが、日本のどこかに、例えば「明智小五郎と怪人二十面相がここで対決した」なんていう記念碑があったりするんでしょうか。

ここはもうひとつ、印象派ファンの方にとっても面白いホテルですね。このホテルには「ピサロの間」があります。ピサロといえば、第一回から八回まで、一度も欠かさず印象派展に出品した唯一人の画家です。印象派の仲間内では長老とかモーゼとか呼ばれて慕われていました。

当時、変わり行くパリの街を、パリジャン、パリジェンヌはあまり好みませんでした。急速な変化というものは時に人を困惑わせ、反発させるものですね。でもピサロは(ピサロに限らず、印象派の画家一般に言える事でもありますが)、「近代的な物」が好きでした。鉄道とか、大都市とか、その大通りとか。1890年頃から経済的に楽になってきたピサロはエラニー・シュル・エプトに住んでいましたが、1893年にこのホテルに滞在し、「ここからの眺めは美しくはないかも知れないが、近代化に満ちている」という手紙を書いています。

そしてピサロがここに滞在中に描いた作品「テアトル・フランセ広場 冬の午後の太陽」(ノートン・サイモン美術館)は、1890年以降の、点描画法が一段落してからの作品ですね。で、この作品を見ると、パリのオペラ大通りを知っている人ならば、「あ、あの場所だ」と、すぐに判ると思います。この辺が凄いですね。120年近く前の作品と今の風景がほぼ同じというのが。例えば東京で、120年前の面影が残っている所がどれだけあるでしょうね?

序でに言えば、もう一つ、印象派ファンの方には興味深い場所がありますね。ルーブルから歩いて15分位でしょうか。1874年、オペラ座のすぐ近く、写真家ナダールのアトリエで第一回印象派展が開かれましたが、カプシーヌ大通り35番地にあったこのアトリエも、「あ、ここだ」と見て判る形で残ってます。
ここを撮影するのは冬の時期を選ぶべきだったなと後悔しました。夏は木が茂ってるので、正面から撮ったんじゃ建物が見えない。で、こういう撮り方になった訳ですね。

ナダールの時代のこの建物の画像は
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%AB:Atelier_Nadar_35BoulevardDesCapucines_1860_Nadar.jpg
で見られますので、比べてみて下さい。

2011年5月29日日曜日

道は遠し、ですねぇ。

「また後日。」と書いたのが3月22日の事だったとは…

いやはや、月日の経つのは早いものですね。で、ジェリコー作「メデューズ号の筏」と「ひぐらしのなく頃に」の共通点というお話。

「ひぐらし」というのも面白いゲームですねぇ。というか、あれはゲームと呼べるのか?推理ゲームというのはある程度ストーリーが進んだらプレイヤーに推理させて、選択肢が出て来て、プレイヤーは自分の推理に基づく選択肢を選んで…というのが普通なのに、それが全く無い。これはある意味ゲーム機で読書をしてるのと同じですね。
アニメにもなった「ひぐらし」は、その残虐シーンで有名になり、物議を醸しました。ただ、この作品が何を言いたいのかはあまり世間一般に伝わってないんじゃないですか?作者の竜騎士07さんがこの作品で伝えたかった事は「仲間を信じる事」「力を合わせる事」の大切さでした。

パラレルワールド的に繰り返す各ストーリーは、「仲間を信じる」「力を合わせる」事ができなかった為に起きた悲劇であり、残虐シーンはその「失敗」を象徴する訳ですよね。「罪滅し編」で圭一とレナが気づいたのは「仲間を信じられなかったからこんな事になってしまった」という事、そして「祭囃し編」ではそれまで傍観者だった羽生も加わって「力を合わせる」事によってハッピーエンドを勝ち取るのですね。

これは漫画版でもアニメ版でも、勿論一番最初のゲーム版でも、一通り内容を見た人にはすぐ判る事なんですが、残虐シーンの評判ばっかりが先行して、それだけで見る気がしなくなった人も多い様です。ストーリー全体を追っていない人にとっては「鉈で頭を叩き割ったり、拷問して殺しちゃうヤツでしょ?」という事になるんですよね。

さて、では「メデューズ号の筏」はと言うと、これも物議を醸した作品です。1816年に実際に起こった軍艦メデューズ号の遭難事件は、最初は隠蔽されたそうですが、結局世間の知る所となりました。これを題材に、ジェリコーは現在ルーブル美術館にある大作「メデューズ号の筏」を描きます。

画像はWIKIにも出てますし、すいません、無断借用ですがhttp://www.salvastyle.com/menu_romantic/gericault_meduse.html
でも見る事ができます。解説も付いてますので。

この作品はメデューズ号事件の生存者の協力を得てアトリエに筏を再現して貰ったり、病院で瀕死の人をデッサンしたり、死体置き場で本物の死体をデッサンしたりして、入念な準備の下に描かれたので、画面下部に配置された死体、病人、狂人の迫力は恐ろしい程ですね。
で、ここで嫌になっちゃう人が結構多い訳です。

この作品の結論は画面上部にあって、やや斜めながらピラミッド状に配置された群像の上の方の人達は、遠くに船影を見つけて「これで助かる」と喜び、布を振って助けを求めている所が描かれている、この「絶望から希望へ」「死から生へ」と転換する瞬間、この一瞬のドラマ、ここをこそ見なきゃいけない作品です。
技法的にも、一見新古典主義派がよく使うピラミッド構図の様に見えながら、このピラミッドは右側に傾き、左下の死体から右上で振られる布へ向けて、ダイナミックな動きが加えられていますね。このベクトルがストーリーの進行を支配している、つまり「死から生へ」「絶望から希望へ」なんですが、横たわる死体、病人、狂人、そして実際のメデューズ号事件では食人まで行われたなんていう話を聞くと、それだけでもうこの絵から目を背けてしまう人も多いんですね。

本当に伝えたい事は別にあるのに、そこへ至る過程の表現だけが一人歩きして注目されてしまい、嫌悪され、一番伝えたい事が伝わらない。

「ひぐらし」も「メデューズ号」も、まぁ、実際、表現はかなりどぎついのは確かですけど、それ程の絶望から、危機から、脱出した喜び、感動の大きさの方があんまり評価されてないというか、目立たないですね。ここに書いた様な事を説明してもなお、「えー、死体の絵なんてやだー」という人もいまして…まぁね、死体を見たいとは普通は思わないでしょうが。

「全体を見る」という事の難しさ、とでも言いましょうかね。今回書いた事については自分なりに消化した上で書いてるつもりですけど、きっと他のいろんな所で、感覚的に、感情的に拒否してしまって本当の意味が解ってない事って沢山あるんでしょうね。

歳だけは「知命の齢」に近づいて来ましたけど、天命どころか身の回りの事でもわからない事だらけですねぇ。困ったもんだ。

2011年5月28日土曜日

ギロチンの事はあんまり書きたくないなぁ。

さて今日は橋についてのお話。

ワインで有名なブルゴーニュ地方から発するセーヌ川はパリを横切り、ノルマンディー地方のルアーブルの近くで海に到着します。セーヌという言葉自体は「曲がりくねった」と言う意味で、確かに大きく蛇行しています。これはセーヌ川の水源が海抜わずか471メートルにある為、速く勢いがある流れではないからですね。全長780Kmのうち、パリの街は東西わずか12Km、さらにそのうちのサン・ルイ島からエッフェル塔までの川岸が世界遺産となっていますね。

さて、このセーヌ川を挟んでパリの町は「右岸」「左岸」に分かれます。カルチェ・ラタンの学生街・文教地区の左岸に対して、右岸はブティック街、商業地区ですから、俗に「左岸で頭を使い、右岸で金を使う」なんて言われたそうですが。

で、このセーヌ川の両岸を繋ぐ橋は現在パリ市内に37あるそうですが、これもボチボチ紹介して行こうという訳です。今回はコンコルド橋。コンコルドとは調和という意味ですね。
さて、歴史と言えば例によってペール・スタークから行きましょうか(文句言う割にはお世話になってるな)。
1722年7月3日の勅書により、ルイ十五世はパリの商人頭(訳注:ほぼパリ市長に匹敵)と参事会員達に対して、サンジェルマン地区に道を通し、当時既にひどい状態で悪名高かった交通を改善する為にどうしても必要だった新しい橋の建設を許可した。1725年に計画が始まったが、作業は1787年まで手がつけられなかった。それまで資金繰りがつかなかったのである。工事は、技師であり、1747年から道路・橋建築学校の代表者・校長であったジャン・ロドルフ・ペロネーの手に委ねられた。1789年、(訳注:フランス革命による)バスティーユ破壊に際して、「民衆が常にその足の下に古い監獄を踏みつける事ができる様に」その石材を使って工事は進められた。1791年に完成し、1792年から1795年まで「革命橋」と呼ばれる以前に、ルイ十六世の名を冠して命名されていたこの橋は、その後1814年までコンコルド橋と名乗る様になり、1830年にはこの名が不動のものとなった。1931年に大幅に拡張されたこの橋は、マドレーヌ寺院の正面と対応する古代神殿風の正面を持つブルボン宮へと続いている。
で、ここはもとは渡し舟が通う渡し場だったとか、この橋の建造計画が持ち上がった1725年はコンコルド広場(当時はルイ十五世広場)の整備計画が始まった年でもあるとか、この橋にはナポレオンが1810年、戦場に斃れた八人の将軍の像を取り付けたとか、1814年から1830年の王政復古時代には「ルイ十六世橋」の名前が復活していたとか、同じ王政復古時代にはナポレオンの将軍像の代わりに偉大な大臣、海軍軍人、陸軍軍人の像が四体ずつ、計十二体の彫刻が取り付けられた事とか、やっぱり書いてないですね。ペール・スターク。まぁ、スペースの都合もあるんでしょうが。画像はコンコルド広場。
さてこのコンコルド橋がコンコルド広場とブルボン宮を繋いでいるのですね。ブルボン宮とは国会の下院に当たる「国民議会」の建物です。上院にあたるものは「元老院」といい、これはパリ左岸、リュクサンブール公園の中にあるリュクサンブール宮殿にあります。リュクサンブール公園といえば「あヽ無情」を思い出す方も多いのでは?ジャン・バルジャンが少女コゼットを連れて散歩したのがこの公園でしたね。このリュクサンブール公園の中にはリュクサンブール美術館もあって、色々と面白い展覧会などもやってます。

リュクサンブール公園の近くにはダロワイヨのティールームなどもあって、ちょっと贅沢に時間を使ってお茶とか散歩とかするにはもって来いの所です。このリュクサンブール公園には自由の女神像(そう、あのバルトルディー作の)もありますしね。

さて、そんな訳で。今回もまたいろいろと宿題を残した様な気もしますが。例によって(こればっかりだな)また次回。

2011年5月27日金曜日

「枯葉」の季節じゃありませんが。

さて、本日は街路樹のお話。

パリの街路樹で一番多いのはマロニエとプラタナスだそうです。で、ちょうど初夏のこの時期、プラタナスの葉がずいぶんと繁って来ましたから、ちょっとプラタナスについて書いてみようかという訳です。
プラタナス自体は日本でも割とよくある街路樹ですからね。良くご存知でしょう。

プラタナスというと何を思い浮かべますかね。
立教大学出身の方なら学内の並木道と「鈴懸の径」でしょうかね。
もうひとつ歌に出てきたといえばはしだのりひことシューベルツ「風」ですか。
松田晃「私の街」にも出て来ましたね。松田晃氏というとどうしても「あなたの心の片隅に」が思い浮かびますけど、ってPOPCON世代の人ならわかると思いますが。
最近の歌ならゴスペラーズですかね。「Atlas」。

おっさんとしては松田優作「探偵物語」の「脅迫者」の回(だったかな)、工藤ちゃんが落ち葉を拾い上げては放り上げて雪みたいに降らすシーンの落ち葉がプラタナスじゃなかったかな?と思うんですが。

東京行進曲(1929年)には「昔恋しい銀座の柳」という歌詞がありますね。銀座の並木は今でも柳ですが、昔の柳並木は段々にイチョウに変わって行ったんだそうです。そして関東大震災以降、プラタナスになった訳ですが、「昔恋しい銀座の柳」を懐かしんでこの歌詞を書いたのが西條八十ですね。この曲のおかげで「銀座に柳並木を!」という運動が起こり、「銀座の柳」復活となったんだとか。この歌が無かったら、今でも銀座はプラタナス並木になってたんでしょうかね。

プラタナスでそのまま日本で通じてますけど、日本語では「鈴懸」ですね。やっぱり、この名前は、こんな鈴を懸けた様な形の種から来てるんでしょうね。
で、この種(?)は段々にばらけて落ちて来て、パリの道路清掃係の人達を悩ませる事となる訳ですね。勿論落ち葉の季節もそうなんですが。
清掃係員さんが集めたプラタナスの種。

ところで、シャンソンというと大抵の方は「枯葉」とか思い出すんじゃないでしょうか。カラオケで「枯葉よぉ~」なんてやってた人がおっさんの知り合いにもいましたが。この曲は1945年、ローラン・プティのバレエ「ランデヴー」の為にジョゼフ・コズマによって書かれた曲ですね。詩を書いたのはジャック・プレヴェール、マルセル・カルネ監督の映画「夜の門」の挿入歌として使われてます。映画の中でこの曲を歌ったのが若き日のイヴ・モンタンでしたが、映画も曲もその当時はヒットには結びつかなかったそうですね。

後にジュリエット・グレコが歌う様になってから認められ始め、すっかりスタンダード・ナンバーになりました。いろんな人が歌ったり、演奏したりしてますね。グレコをはじめエディット・ピアフ、アズナブール、エリック・クラプトン、マイルス・デイビス、ナット・キング・コール、スタン・ゲッツ、椎名林檎さんもですね。

で、このシャンソン「枯葉」には「枯葉はシャベルで集められ…」(Les feuilles mortes se ramassent a la pelle)という歌詞があります。パリの街に沢山落ちていて、シャベルで集められる枯葉、と言うとやっぱりこれはプラタナスの葉だったんじゃないかと勝手に想像する訳です。歌詞の中では何の木かは言ってないんですね。

因みに言うと、日本では「枯葉」ですね。英語版では「Autumn Leaves」、秋の葉となってますね。フランス語、つまり原語では「Les Feuilles mortes」死んだ葉という意味ですねぇ。死んだ葉ねぇ。まぁ「枯れる」という事は植物にとって「死ぬ」事ではありますが…

2011年5月26日木曜日

隣の芝生ってやっぱり青いんですね。

フランスに来たばっかりの頃。だから20年以上前の話です。

当時勤めていた会社の取引先の担当者が、イタリア系(?だと思う)のグラマー美女でした。で、会社のフランス人の女の子が、当時まだ独身だったおっさんに、「ほら、あの娘なんかどう?でも駄目よ、あの娘は彼氏がいるから。」なんてからかって来まして。別に(グラマー美女である事は十分認めますが)とりあえず特別好みという訳でもなかったので、「ふぅん、でもまぁ綺麗な人だよね」とか気の無い返事をしたんですが、会社の女の子が続けて、「ホント、綺麗よね、あの娘。でも、オッパイが大きいけどそれは気にならないの?」と聞いて来まして。

男と女で、いろんな事に感覚が違うのは解ってますけど、この質問はやっぱり不思議でした。
そりゃ、でかきゃ良いってモンじゃありません。肥満の延長線上にある巨乳とか、畸形やホルモン異常を疑いたくなる位大きすぎるとか、そうでなくても全身のバランスというか調和を乱す位大きいとかだったらともかく、普通に考えて、巨乳は一般的には男には喜ばれる物だと思いますけどね。女の立場からは、増して異民族ですから、「大き過ぎる」とかそういう感覚も違うんでしょうか。

勿論好みの問題もありますが。とんでもなく女好きのフランス人のオジサンと話していて、やっばり必然的にそういう話になりますよね。で、いろいろ話してるうちに、「で、どんな胸が好きなの?」とオジサンに聞いたら、「掌に収まるサイズが良い」と、パソコンのマウスを操作する手つきのまま指と指の間を全部くっつけた様な形を作ったのでした。所謂貧乳好き?

最近日本で流行ってるのは「大きい胸を小さく、コンパクトに見せるブラジャー」だそうですね。小さい人も悩むんでしょうが、大きい人には大きいなりの悩みがある様ですね。

で、何の話かというと、似た様なギャップは民族間にもあると言う事です。
日本の、一重瞼の女性、気にしますよね。何て言いましたっけ、あの細長いシールみたいなのを瞼に貼り付けて無理矢理二重にする奴。とか、プチ整形なんか。フランスの一般的な男性の意見として、あの一重瞼の目こそ、フランス人にとって「エキゾチックな魅力」なのだ、と言う人が多いです。
髪もそうですね。フランス人さんからすれば、ストレートの黒い髪は彼等にとっての「エキゾチックな魅力」ですから、茶髪にしたり、凝ったパーマとかカールとか、なんでするの?という事になります。

ある日本人画家さんが、奥さん(フランス人です)の肖像画を描いたんですが。肖像画には、日本人がヨーロッパ人を見た時にやっぱり目に付く特徴、「高い鼻」が描かれてました。日本人から見て、欧米人の鼻が高いと言うのはある意味当然なんですが。この肖像画を見た、あるイタリア人さんの感想は、「鼻をこんな風に強調して描かれて、奥さんは怒らなかったんだろうか」というものでした。別にマンガみたいにデフォルメしてあった訳じゃありませんよ。普通に「鼻が(日本人より)高い」フランス人女性の肖像が描かれていたんですが。

似た様な話。あるアメリカ人女性が日本に行ったとき、会う人会う人から「うわぁ、鼻が高~い」と言われ、「こいつらケンカ売ってるんだろうか」と思ったそうです。その女性は子供の頃から鼻が高いのがコンプレックスだったそうで、気にしているのに、会う人会う人からそれを指摘された訳ですね。言った方は間違い無く羨ましがって、褒めたつもりだったんでしょうがね。
実際、高い鼻にコンプレックスを持つ欧米人は多い様で、高い鼻を低くする整形手術があります。日本人の感覚からすれば「あんなに鼻が高いのになんでわざわざ低くしちゃうの?」ですよね。

他にも、顔(頭)が小さいのがコンプレックスだとか、脚が長くて細いのがコンプレックスだとか、日本人からすればそれこそ「ケンカ売ってんのか?」と言いたくなる様な事で悩んでいる欧米人女性は結構いる様です。

日本で「細い脚」がもてはやされる様になったのは「ミニの女王」ツィギーの来日以降ですね。それ以前の世代の人は、細い脚を見ると「何だあの細い脚は、気持ち悪い」なんて言ってました。スマート過ぎる女の子は女としての魅力を認めて貰えなかったり、逆に「健康的な太い足が羨ましい」なんて悩んだりしたとか、西岸良平さんが描いてましたね。

おっさんは以前書いた縄文型骨格のせいで「日本語が上手ですねぇ!」などと言われますが、比喩的な意味でも、実際の寸法上も「でかいツラ」してます。そのわりに「腰が低い」です。足が短いから必然的に腰の位置が低いというね。清水義範さんもそんな事書いてましたね。「すらりと伸びた長い胴」とか。

2011年5月25日水曜日

もっと違う物をハントしたい気もする。

ガールハント?死語ですねぇ。
コニー・フランシスの「ボーイ・ハント」1960年の映画です。その頃の流行語ですかね。今で言えばナンパ・逆ナンですね。フランス語で「ナンパする」はDraguer(ドラゲ)です。誰かに麻薬を与えてヤク中にしてしまう事をDroguer(ドロゲ)と言いますので、お間違えの無い様に。

フランス語豆知識
draguer une fille : 女の子をナンパする
droguer une fille : 女の子をクスリ漬けにする
ヤバいだろ、そりゃ。恐ろしい言い間違いですね。

それはさておき。ハントするのはインベーダーです。意外と結構な頻度で侵略しに来てる様で、インベーダー画像が溜まって来たのでここらで公開。
いきなり挟み撃ち攻撃ですか。パリ北駅の裏手、ブルヴァール・ド・ラ・シャペルを挟んで、南側モーブージュ通りの入り口近くと、北側トンボクトー通りの入り口を侵略するベーダーちゃん。因みにトンボクトー通りの画像の中の看板はハマムですね。蒸し風呂…古いなぁ。それを言うならスチームサウナじゃないか?いやいや、最近は「日本で言う」と「日本語では」を微妙に使い分けないといけませんね。日本語では蒸し風呂。日本で言うスチームサウナ。

シャンゼリゼのすぐ近く、ポンチュー通りとポール・ボドリー通りの交差点。
この辺はシャンゼリゼからポンチュー通りに抜けるショッピングモールというかアーケードみたいなのが幾つもあって面白い所ですね。シャンゼリゼのカフェなんかに行ったら観光地値段で何でも高いので、一本裏道に入ってみると良いですよ。ポンチュー通りなんかは普通のオフィス街ですからね。値段も、まぁ、安いとは言いませんが観光地値段よりはましです。
まぁ、高くてもシャンゼリゼの雰囲気を楽しみながらお茶したい方はそれでも良いんですが。

こちらはパリ南東、ベルシー地区。すぐ近くにホテル「ノボテル」と「オールシーズン」がありますね。その辺に泊まる方なら歩いて行けます。ここもまた地下鉄が地上を走る所で、先日のビル・アケム橋の様に二階建てになったベルシー橋の北側と言うか東側と言うか、ベルシー河岸とベルシー大通りの交差点。
パリの街のセーヌ川より北側を「右岸」、南側を「左岸」と言いますね。セーヌ川は西に向かって流れてますから、その流れから見て右左という事です。

ここはラペ河岸とトラヴェルシエール通りの交差点。車で通りかかって、窓から撮ったので(運転しながらじゃありませんよ)遠くからしか撮れなかったんですが。
ところで、こいつはちょっと不気味な雰囲気じゃないですか?髑髏っぽいと言うか。デザイン的にも白黒で、他のと雰囲気が少し違う様な。そう見えるのは後ろに少しだけ写っている煉瓦造りの建物のせいかも知れませんね。後ろの建物は検死局、変死体や犯罪に関わる死体を解剖する所です。ひょっとして作者さんもそんな風に意識してたのかも知れません。

またある程度まとまったらアップしますね。んー、これも“日本で言う”「うp」か。

2011年5月24日火曜日

やっぱり脱線するか。

さて本日はケフタです。

またもや馴染みのアラブ人さんの店で、今日はケフタにしました。ケフタもメルゲーズ同様、日本ではあまり有名ではないかも知れませんね。要するに肉団子なんですが。ハンバーグの親戚みたいな物でしょうが、アラブ系は豚は食べないので肉は牛か羊です。ケフタそのものはアラブ圏以外にもある様で、中には山羊の肉のもあるそうです。鰯でも作れるとか。
相変わらずポテト大盛り、そして具は違ってもサンドイッチの形はいつも一緒。

ケフタのタジンもありますね。タジンはアラブ風煮込み料理とでも申しましょうか。ケフタのレシピを紹介しているサイトなんかも結構あります(日本の方のサイトも)。因みに材料は挽肉の他に刻みパセリ、玉葱、クミン、コリアンダー、カイエン・ペッパー、シナモンやパプリカ。ケフタ用香辛料ミックスみたいなのも売ってます。他にもクスクス用香辛料ミックスとかもスーパーで売ってます。

フランスはやっぱりアラブ系の人が多いんだなぁと改めて感じますね。旧植民地の時代から、社会党政権時代に支持者を増やす為、労働移民としてアルジェリア人を大量に入国させたり、勿論自分の意思で出稼ぎに来た人もいます。フランスの国民の七、八割がカトリックで断トツですが、フランスで二番目に人口の多い宗教はイスラムですもんね。

先日、仕事関係のマグレバンさんが、「腹減った、忙しくて食事してる暇もない」と言ってまして。実はおっさんも同じで、仕事が一段落したら食べようと思って買っておいたサンドイッチを分けてあげようとしたら、「ありがとう、でもこのサンドイッチにはハムが入ってるから食べない」と。いろいろと難しいですねぇ。そういえばおっさんの知り合いで、和食屋さんに行って、連れの人がアラブ系なのにうっかりトンカツなど注文してしまい、気まずい思いをしたという人がいましたが。

フランスにはマグレバンさんに限らず、セネガルやマリといったアフリカ・アラブ圏の人も多いですし、トルコ人さんも多いですね。知り合いのトルコ人さんは日本ファンで、「エルトゥールル号遭難事件の時から日本とトルコは友達だ」というのが口癖です。まぁその頃はまだトルコじゃなくてオスマン帝国だったんですが。1890年、トルコの軍艦「エルトゥールル号」が和歌山沖で遭難し、紀伊大島の住民さん達が救助、捜索、生存者の手当て、保護、死亡者の埋葬等、惜しみなく援助し、自分達の食料さえ十分でないのに、緊急用備蓄食料さえ出して遭難者さん達を助けたと言う事件でした。
後に山田寅次郎は義援金を持ってトルコに渡り、士官学校で日本語や日本学を教え、また日露戦争では、ボスポラス海峡でロシア黒海艦隊の動きをキャッチしてその情報を日本に伝えたりもしてます。トルコはロシアの脅威にさらされていたため、日露戦争で日本が勝った事を喜び、東郷平八郎元帥に因んで子供に「トーゴー」と言う名前をつける人が多かったとか、「トーゴー通り」や乃木希典大将に因む「ノギ通り」と名づけられた通りがあったそうです。(序でに言えば「東郷ビール」は現在はオランダ産ですね。元はフィンランドで「世界の提督ビールシリーズ」というのがあり、この中に東郷平八郎元帥と山本五十六元帥をデザインしたラベルのものがあった訳ですが。ラベルだけとはいえ、「東郷ビール」は現存してるのに、何故「山本ビール」は無いんでしょうか。)

このエルトゥールル号事件で受けた恩義が後に、イラン・イラク戦争の際に、在イラン邦人救出のため、トルコ航空が特別機を飛ばし、トルコ人は陸路でも脱出できるからと自国民を陸路に切り替えさせてまで日本人を助けてくれた理由になる訳ですから、まさに「情は人のためならず」ですね。

で、その知り合いのトルコ人さんは「いつか日本に行きたい、遭難現場を見たい」と言ってましたので、串本町や紀伊大島の地図とか、慰霊碑やトルコ記念館の資料とか、取りあえず集められる限りの資料を渡したんですが。まだ日本に行ったとは聞いてませんが、そのうちおっさんの知り合いのやたら濃い人が地図を持って和歌山辺りをうろつくかも知れません。

2011年5月23日月曜日

「今日が最後です。」

そしてアメル先生は黒板一杯に「VIVE LA FRANCE!」(フランス万歳!)と書くのですね。

「最後の授業」は、アルフォンス・ドーデの短編集「月曜物語」に収めらていますね。もともとは新聞連載で、「月曜物語」という位ですから、新聞の月曜日号に連載されてたのかな?なんて想像する訳ですが。

フランツ少年は宿題もやっていない上に遅刻までして、どんなに怒られるかとヒヤヒヤしながら学校へ行きます。ところがいつもは厳しいアメル先生は怒らずにフランツ少年に着席を促します。教室には大人達もいて、どうしたのかと思っていると、普仏戦争で負けたフランスは、アルザス地方とロレーヌ地方の東半分をプロイセンに取られてしまい、ここアルザス地方はプロイセン領となり、「国語」の授業はこれからはドイツ語、今までの「国語」フランス語のアメル先生の授業は今日が最後。
授業の終わりに、アメル先生はもう、挨拶の言葉すら言えず、ただ黒板に「フランス万歳!」と書きます。

ドイツ・フランス国境のアルザス・ロレーヌ地方は、両国が取り合いをして、戦争の度にドイツになったりフランスになったりした所です。もともとはここは神聖ローマ帝国領でしたが、三十年戦争後のウェストファーレン条約により、フランスの進攻を喰い止める為にフランスに割譲されました。この辺の事情は、フランス国王シャルル三世が、バイキングの進攻を喰い止める為にノルマンディーをバイキングの首長ロロンに与えたのと似てますね。

ところが、普仏戦争後、アルザス地方の中でも、ベルフォールの町だけはフランスとして残りました。ベルフォールの防衛線は破られなかったのですね。この防衛戦で活躍したのがピエール・フィリップ・ダンフェール・ロシュロー大佐でした。パリのメトロにもダンフェール・ロシュロー駅があります。ベルフォール防衛の英雄を称えて彼の名を冠した広場には、バルトルディ作のライオンの銅像があります。これはバルトルディ(「自由の女神」の作者でもある)が、ベルフォールの町の岩に彫ったライオン像のミニチュアというか、銅像版ですね。
さて、例によってペール・スターク。
彫刻家オーギュスト・バルトルディ(1834-1904)のブロンズの巨大なライオンは、ベルフォールの町と、1870年11月から1871年2月まで、プロイセン軍の攻撃を防いだ守護者ダンフェール・ロシュロー大佐の雄姿を象徴している。ベルフォールの山の赤い砂岩にライオン像を刻んだ後、バルトルディは打ち出しの銅像によるスケールダウン版を提案し、そしてそれはパリの南側の旧境界線の中心に置かれた。慎重な事に、ドイツ人の自尊心を傷つける事がない様に、彼はこの気高いライオンの視線を西に向けたのだった。
この記念碑は1880年に造られ、アルザス・ロレーヌのフランスへの復帰後三分の一世紀を経た1979年、ダンフェール・ロシュローの栄誉を称えるメダルが台座に設置された。

へぇ。ドイツ人の自尊心を傷つけない為…ねぇ。フランス人にそんな気遣いの心があるとは知らなかった。どっちかといえばフランス人は何でも自慢したがるタイプに見えるんですけど。
仕事で西フランスのペイ・ド・ラ・ロワール地方ヴァンデ県に行った時、地方の名産という事でブリオッシュをご馳走になったんですが。ブリオッシュの語源はノルマン語のbroyer(砕く、すりつぶす)とhocher(揺り動かす)といわれ、つまりこれはノルマンディー地方発祥なんですが、日本語でそんな話をしていたら、一緒にいた地元のフランス人さんが(日本語で話していたにもかかわらず)「ノルマン」という単語を耳聡く聞きつけ、「ブリオッシュはこの地方の物だ、ノルマンディーじゃないんだ!」と強く主張して来まして。こういうタイプがフランス人の典型なんですけどね。

ところで、このブリオッシュは通常のフランスパンと違って卵、バター、牛乳を多く使うのでパンというよりは菓子パン、お菓子に分類されます。「パンが無いならケーキを食べれば良いじゃない」として知られるマリー・アントワネットの有名な台詞がありますが、この原文は「Qu'ils mangent de la brioche」、「ブリオッシュを食べなさい」なのですね。実際はマリー・アントワネットが言ったのではないという説もありますが、彼女の台詞としてすっかり定着してます。

「悪ノ娘」リンちゃんに「悪ノ召使」「白ノ娘」を通してブリオッシュがついて廻るのもそういう連想からなんでしょうかね。

2011年5月22日日曜日

また今夜も眠れなくなっちゃった。

古いなぁ。という訳で本日は地下鉄。

パリのメトロは1900年の万博に合わせて開業しました。1896年から1932年まで技師長を務め、「メトロの父」と呼ばれたのがフュルジョンス・マリー・オーギュスト・ビヤンヴニュで、彼の名は「モンパルナス・ビヤンヴニュ」駅の名に残されてますね。
現在パリのメトロは14路線、300駅を数えます。最新の14番線は運転士がいない集中制御のメトロで、一番前の席に座るとジェットコースターみたいで面白いですよ。

「地下鉄のザジ」1960年、ルイ・マル監督の映画ですね。2009年でしたか?修復したフィルムで最映されました。ルイ・マル監督のデビュー作「死刑台のエレベーター」(こちらは2010年、緒方明監督、吉瀬美智子、阿部寛主演でリメイクされましたね)からは想像もつかないドタバタコメディーです。劇中、地上を走る地下鉄を指して、ガブリエルおじさんが10歳の生意気少女ザジに「ほらメトロならそこに」と言いますが、ザジは「メトロ?メトロは『地下鉄』でしょ?これはメトロじゃない」なんていうシーンがありますね。
パリのメトロの6番線と2番線は地上に出て、それどころか高架になってます。特に6番線のパッシー駅とビル・アケム駅の間は、高架線上を走るメトロがセーヌ川を渡るので、窓からエッフェル塔がよく見えますね。
駅も高架上にあります。ラ・モット・ピケ駅からの眺め。奥に見える高層ビルは「モンパルナスタワー」。
地下鉄ですから、勿論地上ばっかりじゃありません。
1番線と7番線の乗換駅、Palais Royal Musee du Louvre駅の入り口。巨大なビーズ細工みたいですね。
ただしこの入り口、入って行くと、自動改札機しかありません。前もって回数券を買ってある人か、定期を持ってる人しか使えないと言う事ですね。

メトロのホームで電車を待ってたらこんなのが来ました。保守点検?修理?の作業車ですね。ご苦労様です。
かと思えば、「こらちゃんと仕事しろ」と言いたくなる様な事もありますねぇ。日本でこんな事やったら怒られるでしょうね。「次の電車は今から3分後に来ます。その次の電車は今から8分後に来ます」ふむ。で、今何時?
ちゃんと仕事してる人も居ますって。メトロの広告ポスターを貼る職人さん。プロです。メトロ構内の巨大なポスターは、実は六枚位のポスターを継ぎ合わせてあるのですね。まぁ、職人さんの腕によりけり、時々継ぎ目がずれてるのなんかもありますが。
ところで、ある日こんなポスターを見かけて、思わず笑ってしまいましたよ。
男は「裸ズボン」女は「裸シャツ」というのは結構、男の永遠の願望であったりする訳ですね。映画や漫画なんかにも結構出てきますし。おっさんだけじゃなかったらしい。
ん?おっさんは家の中では大抵Tシャツ(かポロシャツ)・ジーンズですよ。
家内ですか?「裸シャツ」?いや、ムリしなくて良いから。

くだらん話はさて置き。地下鉄1番線、Hotel de Ville駅構内に、こんなプレートがあります。
1944年8月16日、
3000人のパリ地下鉄公団の職員が、占領軍によって禁止されていたストライキを行い、ナチス占領下のパリで、サン・ポール駅からオテル・ド・ヴィル駅まで行進した。
このデモは、パリ解放のためフランス内部から行われた「自由フランス軍」による全体蜂起の夜明けを告げるものとなった。
この出来事の50周年に当たって、パリ地下鉄・バス公団の全職員は、パリが自由を取り戻す事に貢献した、慎ましく、無名の、しかし勇敢な3000人の職員に賛辞を贈るものである。

フランスのあちこちにこういう物が残されてますね。11月11日の第一次世界大戦終戦記念日、5月8日の第二次世界大戦終戦記念日には、各機関区や路線ごとに駅構内に設けられた戦没者の慰霊碑に献花が絶えません。勿論鉄道以外にも職場や学校ごとに慰霊碑があります。

しかし、フランス人のスト好きにはこういう背景もあるのかも知れませんね。勿論、労働条件や待遇の問題、そして政治的要求を掲げてストやデモをする訳ですが、心のどこかでこういうヒロイックな先人たちに自分を重ね合わせてるんじゃないでしょうかね。

スト予告は大抵出るんですが、時には「抜き打ちスト」もありまして、突然「今からストライキに入ります」なんて電車が止まったりとか。これは困るんですけど。

日本では政治的なデモはまだしも、労働条件に関するデモなんかは滅多に見なくなりましたねぇ。日本では珍しいからか、パリでデモを見ると日本の方は「何のデモですか?」と聞いて来るんですが。パリに住んでるとデモやストは「またか」という感じなので、何を要求するデモ・ストなのか知らなかったりします。何かを要求して、それを世間に知らしめるための行動の筈なのにね。これじゃ逆効果じゃないか?

2011年5月21日土曜日

大通り。

さて、今日はパリの街の事を少し。

例によってペール・スタークなんですが。
1670年、ルイ十四世は、古い城壁を取り壊し、道幅の広い、何列かの並木を持つ新しい大通りを整備する事を決めた。ルイ十五世の時代には、劇場やカフェに囲まれたこの最新流行の大通り沿いには、館や大きな庭園等が次々に造られていった。王政復古から七月王政の時代には、この大通りの二極は、若い優美な富裕層や伊達者、ダンディ、勇者等が集まったガン大通り(またはイタリアン大通り)と、もっと庶民的な、数々の劇場で演じられた悲惨な(訳注:「流血の」という意味もあります)メロドラマの故に「犯罪大通り」と呼ばれたテンプル大通りだった。1900年以降、パリの豪華と娯楽の中心はシャンゼリゼへと移って行った。
画像はモンマルトル大通りです。ペール・スタークのタイトルが「Le Grand Boulevard」でなく、「Les Grands Boulevards」と複数形になっています。この近くにある地下鉄の駅名も複数形です。つまり「グラン・ブールヴァール」とは幾つかの大通りを纏めた総称なのですね。で、古い城壁を壊して造った大通りをブールヴァールというんだそうですが、以前ここにあったのはシャルル五世とルイ十三世の城壁で(やっぱりこういう事が書かれてないペール・スターク)、これはボーマルシェ、フィーユ・デュ・カルヴェール、テンプル、サン・マルタン、サン・ドニ、ボン・ヌーベル、ポワソニエール、モンマルトル、イタリアン、カプシーヌ、マドレーヌの各大通りを指します。で、お暇な方はパリの地図を広げて見て下さい。この、バスティーユからマドレーヌまで何度も名前を変えながら続く「グラン・ブールヴァール」を南北に横切る通りの名前を見て頂くと、大通りの北側と南側で、通りの名前は同じだけれど、大通りを境に北には「Faubourg」という言葉がつくのに、南側ではつかないというのが沢山あります。「Faubourg」という言葉は現在では裏町とか下町と訳しますけど、元は「城壁の外」という意味だったのですね。ですから、元城壁の「グラン・ブールヴァール」を境に、北(外)には「Faubourg」がついて、南(中)にはつかないのですね。フォーブル・モンマルトル、フォーブル・ポワソニエール、フォーブル・サンドニ、etc。まぁ、パリの街には何度か城壁が築かれ、城壁があったのはここだけじゃないので、この「フォーブール」がつくかつかないかの境目は場所によって違うんですけどね。左岸(パリのセーヌ川より南側)なら、南側が城壁の外だった訳です。

同じ「大通り」でも、「アヴェニュー」にはそういう意味は無く、「アヴェニュー」は「並木道」と訳されますね。ただし、「アヴェニュー」なら全て並木があるかと言うとそうでもないんですが。難しいですねぇ。

で、パリの街を歩いていて、「あれ?どっちへ行けば良いんだろう」なんて事になったら、地図でセーヌ川と現在地の位置関係を確かめて下さい。パリの通りのナンバリングは、セーヌ川と平行の通りなら上流(東)の方が番号が若く、下流(西)の方が番号が大きくなってます。セーヌ川に交わる通りなら、セーヌ川に近いほうが番号が若く、遠い方が大きい番号です。日本でも、皇居に近いか遠いかで番地が違うとか、ありますよね。

どうでしょう、パリ歩きの助けに多少なりともなったでしょうか。

2011年5月20日金曜日

成長しなきゃいけないんですね、か。

昨日の記事の文章から、今度は「さらば青春の光」にジャンプしちゃいました。

元々は1973年のザ・フーのアルバム、「Quadrophenia(四重人格)」ですね。ロック・オペラを前提にして書かれた全作詞作曲ピート・タウンゼントのコンセプト・アルバム。「四重人格」とは、ザ・フーの四人のメンバーの象徴だとか、映画に関しては登場人物のジミー、エース、デイブともう一人誰だっけ…の事だとか言われてますね。

これが1979年にフランク・ロダム監督で映画化されたんですが。しかし邦題「さらば青春の光」ねぇ。そういうお笑いコンビさんもいますが、コンビ名はこの映画のタイトルからとったんだそうですね。おっさんとしては「四重人格」のままで良いんじゃないかって気がするんですけど。それはともかく。

で、初めてこの映画を見た時、ラストシーンどうなったのか良くわからなかったんですね。(いきなりラストシーンの話から入るか?普通)スティング演じるエースのスクーターを盗んだジミーは、崖の上でスクーターをでたらめに走らせ、最後は絶壁の上から見える海に向かって突っ込むんですよね。で、下の岩場に落ちて壊れるスクーター。ジミーはどうなったの?特に説明は無い。彼の「青春」のシンボルであったスクーターはもう粉々になってしまった。青春は終わった、という解釈と、ジミーもスクーターと共に崖からダイブしたんだという解釈がありまして、でもジミーが落ちる所は描かれてないし…とか思ってたら目ウロコの解釈が。
「レコード・コレクター」誌の加藤ひさしさんが書いてたのは、「青春のシンボルであるスクーターを崖から落としたジミーは、崖の上で、夕方まで、青春の終わり味わっていた。青春の終わり、大人になるという事、そういう事を半日考えて、夕方、ジミーが海辺をとぼとぼ歩くオープニングシーンに繋がっている。ラストの崖のシーンと、オープニングの海辺のシーンの間に半日ある」と。この映画の結末は、冒頭から示されていたって事なんですね。

思えば「青春の終わり」というのは永遠のテーマなのかも知れませんね。「少年たちの背中には翼が生えているのだろう」とは「パタリロ!」17巻「11月のサナトリウム」のナレーションですが。
パタリロ「翼を失くした少年はどうなるのかな」
バンコラン「決まっている 男になるんだ」
ふーむ。しかし「男」になるのも大変な様で、その昔、侠客さんたちの間には「手締めの修行」というのがあったんだそうで。
「男になりたい 男で生きたい 男で死にたい」と唱えながら手締めをしたそうですね。
「いい男」どころか「男」でいるのも大変な訳ですね。なんてこったい。

ところで、話が突然戻りますけど、「さらば青春の光」を初めて見たのは大学生の時で、英会話サークル(に名を借りた遊びサークルというウワサもありますが)にいたおっさんとしては、この映画の主人公たちの話す英語が面白かったです。所謂コックニーなんでしょうかね。先程は「エース」「デイブ」と普通に表記しましたけど、映画の登場人物達は「アイス」「ダイブ」と発音してます。「エイ」の音が「アイ」に変わってしまうというのはイギリスのあまり品の良くない英語の特徴です。元イギリスの犯罪者の流刑地であるオーストラリア訛りなんかもそうですね。「バララットの黒ジャック」とか。「シャーロキアン」さんはご存知でしょう。

以前ロンドンのタクシーの運転手さんにダービー・ストリートと言ったら通じなくて、デイビー・ストリートと言ってみてもまだ駄目で、結局行きたい所番地を書いて見せたら、「何だ、ダイビー・ストリートの事か」と言われました。

日本語は逆で、「アイ」の音が「エー」に変わると品が悪くなりますね。「うるさい」と言うより「うるせえ」、「~したい」と言うより「~してえ」と言う方が乱暴な感じがします。タモリ氏が江戸弁遊びなるものをやってましたね。灰皿→へえざら 鯛→てぇ とか。そのうち「おらぁ江戸っ子でい」と言ってる積りが「エレェ・エデッケデェ」とか、訳の解らない言葉になってたとか。

やっぱり言葉って面白いですねぇ。で、映画の話はどこ行った?

2011年5月19日木曜日

弁証法と女神様の関係について。

さて、いつかの宿題にいい加減手をつけなきゃ、という訳で、弁証法です。

芸術の発展の歴史。なんて論じてたら一生かかります。
ダイジェスト版風に。と言うか百科事典の総論風に。それでも何段階かに分けないと。

ここはやっぱりヨーロッパ芸術史の夜明け、ルネッサンスから参りましょうか。ルネッサンスという言葉も良し悪しな気もしますね。「再び生まれる」というこの言葉には、何となく「生まれ変わった」というか、それまでのもの一切を一新した様な響きがあります。確かにいろんな事が変わったんですが、ルネッサンス期にも、別に中世のものが消え去った訳じゃありません。

現世否定の中世キリスト教と神話の神々に象徴される人間臭さ(?)との融合が、ルネッサンスのひとつの大きな特徴だった訳ですね。この融合をもたらしたのがマルシリオ・フィチーノを中心とするネオ・プラトニスムの思想でした。という事は、否定と肯定が触媒を介して化学反応を起こした、ヘーゲル流に言えば「止揚」されたと言えるかと。

さて、その後も対立も統一も色々ありますけど、それはおいおい続ける事にしましょう。
ルネッサンスについて言えば、この芸術運動にひとつの方向性を与えた思想家、マルシリオ・フィチーノの主著は「プラトン神学」、キリスト教神学をギリシャ哲学で読み解こうと言うものですね。キリスト教と神話の神々は、ヘーゲルの言う「相互媒介」みたいな物だったのでしょうかね。対立し、またまさにその対立によって結びつくと。この対立が解消されて、両者が完全にひとつになった訳ではなく、キリスト教も、神話の神々も、それぞれ存続している所も「止揚」と言う用語に当てはまるかと思うんですが、どうでしょう。

で、ここまで読めばお気づきの方も多いかと思いますが、そしてこれまでの記事でも、「主無しとて春な忘れそ」や「ミッシェルさんも応援してくれてます。」にも顔を出してましたが、おっさんは高階秀爾先生「ルネッサンスの光と闇」の愛読者でして。パリの北の郊外、シャンティイ美術館も大好きなおっさんとしてはやっぱり「三美神」に話を持って行きたい訳です。
シャンティイのラファエルロ「三美神」は小さな絵です。ほぼ同じサイズの、ロンドン・ナショナルギャラリーの「騎士の夢」と対をなすと言われてますね。

で、このシャンティイの「三美神」と、ボッティチェルリ「春」の三美神はいくつかある「三美神」の意味づけの中でも同じグループに属します。「愛」「貞節」「美」の三人の女神様達の動きによって、例の「ゼフュロスとクロリス」の神話の様に、愛を知って成長するプロセスが描かれる訳です。ラファエルロの画面では、腰布をつけた「貞節」と、首飾りをつけた「愛」が対立している(顔を背けあってます)のを、中央の「美」がひとつに結びつけるのですね。
「愛」を知らない「貞節」は、「美」に導かれて「愛」を知る訳ですが、「美」による導きが無ければ、矛盾する物同士です。化学反応を起こさせる触媒、矛盾を止揚する原理が「美」と言う事ですね。

そしてボッティチェルリの「春」の画面、先頭のマーキュリーに続く「三美神」の輪舞。ここでもまた、大きな飾りを着け、乱れた髪の「愛」と、髪をきちんと纏め、飾りを着けていない「貞節」の対立(喧嘩の様に間合いを詰めている?)を、右側にいる「美」が収めています。
エドガー・ウィント教授「弁証法をこれ以上美しく踊らせる事は不可能だろう」 成程。
そしてラファエルロの三美神でもそうだった様に、ボッティチェルリでも、「美」は意識して「貞節」に「愛」を教えようとしています。成長しなきゃいけないんですね。

さて、ざっとだけ御紹介しましたが、まだお読みでない方は、ルネッサンスについては高階先生の名著をお読み下さい。面白いですよー。

2011年5月18日水曜日

思わず「はぁ?」とか声を出しちゃったじゃないか。

いきなりですね。
で、何に対して「はぁ?」なのかという話ですが。
昨日、ネットで日本のニュースを見ていたら、こんなのが出てまして。

http://sankei.jp.msn.com/affairs/news/110517/crm11051720540022-n1.htm

読んで思わず「はぁ?」

「さすまた」って…「刺股」?
あの、時代劇の捕り物のシーンで、襷・鉢巻に御用提灯の捕り物方さん達が持ってる…あれの事?因みに捕り物方さん達の「三道具」は、「刺股」「突棒」「袖搦」であります。一昨日、時代劇ネタを書いたばっかりじゃないか。
取り囲まれた方の侍は、「ふん、木っ端役人共が」なんて言いながら包囲網を楽々と蹴散らしちゃうのがお約束ではありますが。ってかそれはさて置き。

ナイフ乱入男に、取りあえず身近にあるバットを手にして応戦するのは当然として、何でそこに「さすまた」があった?てか日本を離れて久しいおっさんとしては、最近の日本の様子は詳しくは分かりませんが、最近は日本の学校は捕り物用の「さすまた」標準装備か?教員採用条件は「さすまた」の使い方、「捕り物」履修が必須なのか?

少年ジャンプ読者諸兄は「ぬ~べ~」の妖狐・玉藻の「首さすまた」をご記憶かと。
ジャンプ読者でもあり、妖怪物も好物のおっさんとしては、「ぬ~べ~」は結構楽しんで読んでました。勿論、「ぬ~べ~」の連載はおっさんが日本を離れた後、1993年から99年ですので、コミックスでですけどね。アニメ版のB'zのエンディングテーマ「ミエナイチカラ」も良かったですねぇ。ジャンプ作品で、一話完結型でコミックス30巻を超えたのは「ぬ~べ~」と「こち亀」だけだそうですね。

この「ぬ~べ~」の原作・真倉翔氏と作画・岡野剛氏に限らず、かの水木しげる大先生、魔夜峰央氏はじめ、妖怪のキャラデザに必ずと言って良い程使われているのが鳥山石燕の「百鬼夜行」ですね。石燕の妖怪図には1776年の「画図百鬼夜行」「今昔画図続百鬼」、1780年の「今昔百鬼拾遺」、1784年の「百器徒然袋」があり、以降の妖怪の造形の基本になっています。歌麿の師匠でもあった訳ですから、画力も相当なものです。

ところで、妖怪は英語・フランス語WIKIを見た限りでは「yokai」となってますね。これは翻訳不能という事でしょう。幽霊・亡霊・お化けを指す外国語としてはファントム、スペクター位しか思い浮かびません。
フランスの知り合いと、何かの折に妖怪の話になった時、ドラキュラとかフランケンシュタインとか、そういうのフランス語で何て言うの?と聞いたら「モンストル(怪物、英語でモンスター)」ですと。十把一絡げですねぇ。情緒の無い言葉だなぁと思いました。日本語には幽霊、お化け、亡霊、死霊、生霊、妖怪変化、物の怪、魑魅魍魎等々、様々な表現(勿論一つ一つ意味は違いますが)がありますよね。日本を離れると日本語の表現力の豊かさに気づきます。
幽霊だけに足は出しません、とは落語「へっつい幽霊」の下げですが、モンスターだけに…じゃあねぇ…(まぁ、この「幽霊には足が無い」事の背景には円山応挙の作品がありますね。)

で、また、ところで、現代に妖怪が復活してますね。
妖怪「はらだし」。「はらだし」は怖い存在ではなく、酒を出してもてなすと、幸運を呼ぶ「はらだし踊り」を見せてくれたり、落ち込んでいる人を励ましたり。良い奴じゃないか。

じゃなくて。
おっさんには昔の流行が一巡りして戻って来た様にしか見えませんが、若い人達にはある意味当たり前の「腹出し」。日本ではヘソ出しセーターにローライズジーンズなんてのは結構自信のある若い人がする物ですが、こちらでは結構齢の行った「腹が出てる」人も「腹を出して」ます。妊婦さんも。ベルトの上に肉が乗っかってる人でも。いやぁ、個人主義の徹底したフランスらしくて良いですねぇ。何でもアリ。

2011年5月17日火曜日

なんか収拾がつかなくなってる気がする。

日本語に取り入れられている外国語の話を何回か書きましたから、今度はフランスに入って来た日本の物の話をしましょうか。

フランスの運転免許学校の教本。力学的エネルギーとスピードの関係を説明した部分です。1㌧の車は速度50㌔で10㌧、90㌔で32㌧の衝撃力です。(関係無いけどヘビー級格闘家のパンチは300㌔、キックは500㌔、相撲のぶつかりは1㌧以上の衝撃力だそうで。)体重70㌔の人が全体重をかけても70㌔ですが、助走して体当たりをすると700㌔の衝撃力になるそうです。
体当たりをかます時、「バンザイ!」とか叫んでますよ、この人。
昔、日本の駄菓子屋に煙草型チョコレートというのがありました。今でもあるんでしょうか?先日パリのお菓子屋さんで見た煙草型チョコ、残念ながら画像が無いんですが、「カミカゼ」というのと「アタック」というのがありました。勿論煙草の銘柄としては架空。日本人に対するフランス人の意識にはまだそういうのも結構残ってます。カミカゼは英語もそうですがフランス語でも通用してます。フランス語では「カミカズ」と発音します。
ハラキリなんてのも外国一般で通じるそうですが。

そういった、戦争の時代を通じて広まった日本語もあれば、「マンガ」みたいに最近有名になったのもありますねぇ。昔は「絵が描いてあるのは子供の本」というイメージが強かったですが、日本の、大人でも楽しめるストーリー性の強い漫画が入って来ると、これが「MANGA」として普及しました。(従って、その中にはエロ漫画も含まれます。そう言えば、バンジージャンプで有名なバヌアツ共和国には「エロマンガ島」という島がありますな。関係無いけど。)
今や世界で通じる日本語はManga、Otaku、Hentaiだそうですねぇ。ネットでOtakuやHentaiを検索すると、英語や仏語のサイトも結構ヒットしますし。

最近ではフランス人漫画家が日本風のストーリー漫画を描いていて、「マンフラ」とか「フランガ」と呼ばれてます。この看板を描いたのはどっちかな。日本のイラストのコピー?それともフランス人漫画家さんの作でしょうか。
パリにメイド喫茶ができた訳じゃありません。多分簡単な日本料理らしき物があって、日本漫画が置いてあるとか、イラストが展示されてるとか、その程度だと思います。いや、看板を見かけただけで、店には入ってないもんで。

昔は日本と言えばフジヤマ、ゲイシャ、そして桜の花でした。先日煙草屋でサクラという煙草を発見しました。海外輸出用の日本煙草の様ですね。それとも日本でも売ってるんでしょうか?
しかし今更「桜」?って気もしますが。

言葉もさる事ながら、日本発信のファッションも結構パリに入って来てますよ。
ノートルダム寺院の近くを散歩していたら、こんな店がありました。マンガキャラみたいなヒラヒラ服やロリータファッションの服が並ぶ店「ハラジュク」。パリの日本人旅行者の中にもマンガからそのまま抜け出して来た様なファッションの方がいますね。知り合いのマンガファンのフランス人男性は「あれ、マンガと同じだよね、日本にはああいう女の子がいっぱい居るのかな」と大喜びしてました。
ところで、この手のお店としては「Baby(長いので以下省略)」さんとか「Angelic Pretty」さんなんかのパリ店がありますが、どちらも海外店舗はパリとサンフランシスコですね。サンフランシスコもそういう方々のターゲットなんでしょうか。ロンドンやニューヨーク、ロサンジェルスでなくて、何故揃ってサンフランシスコ?何か秘密が隠されているんでしょうか。

日本語も、日本文化も、色々外国に出てってます。が、先日の「キャルシー」もそうですけど、外国人がローマ字表記の日本語を普通に読むと、どうもうまく通じない事があります。故・松田優作の遺作「ブラックレイン」の中でも、アメリカ人さん達はどうしても「佐藤」と言えずに「セイトー」と発音して、その度に健さんから「サトーだ」と直されるシーンがありましたが。

あるフランス人と喋っていたら、日本料理の話になりました。彼曰く「日本料理の中では、以前食べたトンピュラーがおいしかったなぁ」ん?トンピュラー?そりゃ一体どこの料理だ?
ローマ字で書けばTEMPURA、天麩羅でした。そういえば焼き物の手法の一つであるNERIAGE(練り上げ)をヌリアージュと読んだ人もいましたっけ。

2011年5月16日月曜日

どうもすっきりしない。

さて、ここしばらく天気も良くて暖かい、と言うか暑い位だったんですが、数日前から寒くなって、今日はフランスでよくある天気予報、「晴れたり曇ったり降ったり止んだり」の状態でした。晴れ間が見えたかと思えばさーっと暗くなって雨がぱらつき、でも割とすぐ止んで次の晴れ間が…の繰り返し。

時折雨がぱらつくパリの街を散歩しながら、懐かしい物を連想してしまいましたぜ。
「月様、雨が…」古いなぁ。「春雨じゃ、濡れて参ろう…」と言うかどうかは存じませんが、フランス人さん達は多少の雨なら傘は差しません。
フランスは元々天気が変わり易いんですが、おかげで、と言うべきか、雨といっても、日本の梅雨みたいな、一日中降り続いて外出する気にもなれないという日は余りありません。カフェで雨宿りでもしてればそのうち止むさ、という感覚なので、多少の雨ならフランス人さん達は傘無しで歩いてます。その上、もし傘を持ってたとしても、カフェで雨宿りをして、店をを出る時に雨が止んでると傘を忘れる可能性大ですしね。フランス人さんも結構ケチですし。

雛菊さんの台詞「月様、雨が…」の「月様」こと「月形半平太」は、島村抱月の「芸術座」を脱退した澤田正二郎達による「新国劇」の、「国定忠治」と並ぶ看板演目ですねぇ。戦前の「活動写真」の時代からいろんな人が演じてますが。沢田正二郎、長谷川一夫、阪東妻三郎、大河内伝次郎、嵐寛寿郎、市川右太衛門、大川橋蔵、う~ん、錚々たる顔ぶれですねぇ。

で、今度は「月様」からの連想で、これが出て来ましたよ。
「我流で頂く事にする。」これまた古いなぁ。でも大好きです。市川雷蔵の眠狂四郎。
まぁ、「剣客商売」の秋山先生親子ならちゃんとした作法で頂きそうですね。「逃げ水半次」の半さんも、意外と心得てそうです。「髪結い伊三治」は「あっしはこの手のお茶が至って不調法でして…」と腰が引けてます。
「眠狂四郎」と言えば柴錬先生の代表作の一つの数えられますねぇ。おっさんにとっては狂四郎と言えば大映(大映と言えば、おっさんにとしてはやっぱり「大魔神」シリーズですが)・雷蔵なんですが、意外や、東宝・鶴田浩二が先だったんですね。で、話を戻して、パリに来た日本の方から良く質問があるのがテーブルマナー。まぁ、確かに一応の決まり事はありますが、細かい事など気にせずに「我流で」お召し上がり下さい。マナーを気にし過ぎて食事を楽しめないのでは本末転倒。日本で行儀悪く思われない程度で大丈夫ですよ。まぁ、ナイフをスプーン代わりに使うのは少々危ないですが…

さて、で、なんですっきりしないかと言うと、ここまで来て、「旗本退屈男」早乙女主水之介にこじつける物が見当たらないからです。市川右太衛門の「人呼んで退屈男」「天下御免の向こう傷、パッ」に当たる連想が出て来ないからです。しまった。

「銭形平次」なら大川橋蔵(長谷川一夫という程古くはない)、「遠山の金さん」なら中村梅之助(片岡千恵蔵まではいかない)、「水戸黄門」なら東野英治郎とか(「人形佐七」はほとんど覚えていない…まだまだ青いな。おっさんにとって千恵蔵はやっぱり「多羅尾伴内」だったりする。「むっつり右門」はアラカンなのだが。)、色々と妙なこだわり(と言うか偏見)を持つおっさんとしては、ここで「旗本退屈男」に辿り着けないのは非常に気持ち悪いんですが。誰か思い付いてくれませんかね。

こいつ、本当にパリ在住か?

2011年5月15日日曜日

お土産には難しいかなぁ。でもチャレンジする方、どうでしょう。

「こち亀」のパリ旅行ネタで、
大原部長「両津、お土産は何を買ったんだ?」
両さん「別に大した物は…エッフェル塔最中と凱旋門饅頭位で」
なんてのがありました。流石に最中や饅頭は有りませんが、エッフェル塔パンならあります。
今回お邪魔したのは、ジャックマール・アンドレ美術館近く、オスマン大通りのパン屋さん、Au Pain Bien Cuit。

お昼時には行列ができてますねぇ。サンドイッチと飲み物、デザートのセットで8ユーロ。
これだけでも価値ありと見ましたが。買ったパンを店内で食べる為のスペースも有ります。ところで、この店の名前、Au Pain Bien Cuitですが、二つの意味がありまして、Bienは英語のWellに当たる、「良い」という意味、cuitとは焼く事ですね。従って、「Bien Cuit」とは「良く焼けた」という意味と、「良く焼いた」、つまりレア、ミディアム、ウエルダンの「ウエルダン」の意味も有るのですね。確かにこの店のパンはウエルダン。写真のサンドイッチのパンなんかも、パリパリというよりはバリバリです。
サンドイッチもさる事ながら、この店の名物はやっぱりこれ。エッフェル塔パン。
まぁ所謂「パン」なんですけどね。エッフェル塔型に焼き上げられたパン、一個七ユーロ。お土産にどうでしょうかね。但し、焼き上がるタイミングの問題がありますから、「焼き上がるまで三十分位待って頂けますか?」なんて事もあります。

焼き上がりを待つ間、他にどんなパンやお菓子があるのか、良く見てみるのもいいですね。
今回のデザートは「フラン・ナチュール」(プレーン・カスタードパイ)を選びましたが、他にもミルフィーユやフラン・アブリコ(アプリコット・カスタードパイ)など、色々ありますよ。

日によって違う様ですが、エッフェル塔の他にも、豚君とかロバ君とか、いろんな変わりパンがあります。
但しパリで買ったパン、日本に着いた頃には硬くなってしまうでしょうねぇ。帰国直前に買ったとしても、日本に着くのはどう考えたって24時間位経っちゃいますね。やっぱりお土産には難しいか。現地消費用ですかね。

ところで、フランスパンが日が経って固くなってしまった時、捨てるのもなぁ、と思ったら(この辺がおっさんですね。食べ物を無駄にする事にどうしても抵抗がある)、ラム酒ベースのシロップに浸けて、フルーツやクリームを添えると即席のサヴァラン風のお菓子になります。まぁヒマだったらやってみて下さい。因みにサヴァランに良く似たお菓子でババと言うのがありますが。九州方面の方々、ゴメンナサイ。

それはさて置き、この「即席サヴァラン」のシロップについて書いときましょうか。
基本的には水とラム酒3:1、これはモンサンミッシェルがあるノルマンディー地方の名産、カルバドス(林檎のブランデー)でも代用可です。お好みでオレンジやレモン汁、オレンジピール、レモンピール等(おろしがねですりおろして)、シロップ1リットルにつき砂糖300g(お好みで増減可)。沸騰させた湯に砂糖を良く溶かします。冷めたらラム酒かカルバドスやその他のお好み材料を加えます。そして硬くなってしまったパンをシロップに漬けてください。浸み込んだら「即席サヴァラン」の出来上がり。

別にエッフェル塔パンでなくても、御興味ある方は、残って硬くなってしまったパンで試してみては?

Au Pain Bien Cuit 111,Boulvard Haussmann 75008 Paris 日曜休み

2011年5月13日金曜日

ブランド物?違うって。

さて、今日もまた東駅絡みですが。

東駅のすぐ南側、マジェンタ通り沿いにあるサン・ローラン教会です。ローマ帝国支配下の一世紀、この近くを通る石畳の街道が造られてます。これはほぼ現在のサン・マルタン通りの位置にあり、北はサンリスへ、南下すればセーヌ川を境にサン・ジャック通りと名前を変え、オルレアンへと続き、この地区はかつて交通の要衝でした。古くから市が開かれており、この市を1182年に国王フィリップ二世が買い上げ、これが後のパリの大市場、「レ・アル」(現在はショッピング・モールになっている)の源流の一つとなるのですね。
また885年から886年にかけてパリを包囲したジークフリート率いる三万人のバイキングは、周囲で破壊・略奪の限りを尽くし、かつてここにあった教会と修道院も大変な被害を受けた…事なんかは例によって書かれてないんですが、気を取り直して参りましょうか。
またもやお馴染みペール・スターク。
メロヴィング朝時代から何度か建て直された聖堂の土地に建てられた現在の教会は、12世紀に建てられ18世紀に増築された鐘楼、1429年の内陣、15世紀に拡張された身廊の複合建造物である。1621年、建築家ルポートルが古典様式の正面入り口を建てたが、これは現在では失われた。1712年、内陣の裏にドーム屋根を頂く、ロトンド形式の聖処女礼拝堂が造られた。1863年から1867年にかけて、教会正面は、その少し前に開通したストラスブール大通り沿いに、他の部分よりやや高い二つの梁間を添えて揃えられた。新しい教会正面は、エナメルを塗った板石にバルズによって描かれた聖ラウレンティウスの生涯に題材をとった絵画で飾られている。これらの作業はコンスタン・デュフーの監督の下に行われた。
キリスト教国に生まれ育った人なら、これで十分なんでしょうが、日本人にとってはサン・ローランと言えばデザイナー?ブランド?という感じですから、ここでフランス語でサン・ローラン、日本語で聖ラウレンティウスの生涯を見てみましょうか。
三世紀、教皇ファビアヌスはローマを七つの地区に分け、それぞれ助祭を置いて担当させました。ラウレンティウスはその助祭の一人でした。ウァレリアヌス帝のキリスト教迫害時代、教皇シクストゥス二世と他の六人の助祭が捕らえられ、処刑された時、財産を管理していたラウレンティウスは、迫害者の代官から教会の財産を差し出す様に要求されます。彼は貧者や病人を連れて行き、「彼らこそが教会の宝です」と代官に告げたと伝えられます。
ラウレンティウスは結局死刑になりますが、その方法は「網焼き」でした。火炙りの刑には違いありませんが、お餅か魚みたいに網で焼かれたのですね。かれは火にかけられてしばらくすると、「片面はもう焼けたよ、もうひっくり返して良い」と言ったそうですが…これは伝説の様ですね。実際にはラウレンティウスは斬首になったと考えられていますが、現在でも彼のシンボルは「焼き網」です。
昔のこういう処刑とか拷問ってのは物凄いですけど、処刑される方も大した物ですねぇ。三世紀のパリ司教・聖ドニは斬首になり、刎ねられた自分の首を持って歩いて行き、パリの北の郊外で死んだと伝えられます。彼が死んだ所が現在のサン・ドニ市、サッカーファンの方は御存知でしょう、スタッド・ド・フランス、通称サン・ドニのスタジアムがある所です。このスタジアムは1998年のサッカー・ワールドカップの為に造られました。ここだけでなく、フランス各地で試合が行われ、開催各都市は、地元の名物を織り込んだ独自のポスターを作りました。ボルドーなら葡萄、トゥールーズなら航空・宇宙関係とか。サン・ドニの町のポスターで、頭の無い人が自分の頭をドリブルしてるのがあったんですが、教会関係から苦情でも出たんでしょうか、しばらくしたら無くなってましたね。

2011年5月12日木曜日

苦労人とは限りませんが。

最近、パリのタクシーが新しくなりました。今までの、そして今でも一番多いオーソドックスなタクシーはこれ。
「TAXI」という看板その物が光っていれば空車、看板その物は光っていなくて、その下についている豆電球が点いていれば実車。ところがこれ、日中の明るい時には物凄く見づらい。冬は日が短いから良いけど、夏の一番日が長い時は23時頃夕暮れですからね。やって来たタクシーが空車か実車か、目を凝らして見てもよくわからない。

そんな消費者の声が届いたんでしょうか。最近、立て続けに二種類の新しいタクシーの看板が登場しました。どちらも、タクシーの看板が緑に光っていれば空車、赤く光っていれば実車という事で、光り方は違っても、意味は同じ。
とは言え、緑に光ってる看板のタクシーならどれでも、手を挙げれば停まる訳じゃありません。
車にもよりますが、手を挙げてタクシーが停まり、運転手「どちらまで?」「オペラ座まで」「そんな近い所歩いて行け」とか。いきなり行き方を説明し始める運転手もいます。それもフランス語で。外国人が道端で手を挙げていても英語の出来ない運転手は停まらず逃げたりね。

しかしまた、タクシーというのは、同国人同志の互助会の機能も果たしている様です。中国人もそうですが、タイ・ラオス・カンボジアとかの人達が、金を出し合って、或いは同国出身の人が良い条件で金を貸してあげて車を買い、皆で交代で営業しているなんてのは以前よく聞いた話です。日本人ではあまり見かけませんけど。まぁ、わざわざタクシーをやる為に日本から来る人もいないのでしょうが、これは難民として外国に逃れざるを得ない状況に有るか無いかの違いですね。

ところでタクシーと言えば。1976年の映画ですねぇ、スコセッシ監督、デ・ニーロ主演の「タクシー・ドライバー」。この、デ・ニーロが演じたトラヴィスは(自称?)ベトナム帰りの元海兵隊員。この時代のアメリカの苦悩が描かれてますが、後でそんなに悩むなら、何で侵攻したりしたんだ?他の道は無かったのか?まぁ、これはアメリカに限らず日本にも、フランスにも、旧ソ連にも言える事ですが。マリコ・テラサキさんの(と言って良いのかわかりませんが)「昭和天皇独白録」など読むと考えさせられますねぇ。ベトナム戦争は、他にもスタローンの「ランボー」を産み出しましたが。あの映画はあんまり好きじゃないなぁ。

更に脱線して、中島みゆき「タクシー・ドライバー」。同じく中島みゆきの「蕎麦屋」と共に、おっさんの一番好きな曲です。寂しい歌の代表格ですけど、この二つの曲の主人公は、ある意味幸福なんだと思います。「蕎麦屋」の主人公は、「今更こいつの顔見て蕎麦など食ったって仕方が無い」相手だろうが、そういう相手が居るんですもんね。「タクシー・ドライバー」の主人公は、泣き顔に見て見ぬ振りをして、関係無い話を続けてくれる苦労人のドライバーに出会えたんですもんね。羨ましくさえ思える程、幸福なんじゃないでしょうか。

別におっさんがそこまで寂しいという話じゃありませんけどね。「寂しい時には僕の好きな菜の花畑で泣いてくれ」とは森田童子の「たとえば僕が死んだら」の歌詞ですね。寂しいといえば、中島みゆき「歌姫」も大好きですが。まぁ、ここに挙げた曲は大抵ようつべに出てますから、興味のある方は探してみてください。

だから性格暗いんだってば。

2011年5月11日水曜日

飛行機に関するお話。

さて、パリに単身赴任中のおっさんは時々日本に帰る訳ですが、先日はパリ発羽田行きの便を利用しました。

この便、便利ですね。成田よりずっと近いし、日本に朝着いて、(体力が許せばですけど)その日一日使えますし、帰りは夜中ですから一日家族と過ごしてからゆっくり羽田に向かえば良い。成田便だと朝五時起きで空港に行かなきゃならないので、前の夜はゆっくりできないわ、早起きで出発も慌しいわですからね。
ただし、気をつけないといけないのが出発日。例えば5月1日羽田発の便であれば、4月30日の夜に羽田に行き、チェックインを済ませ、夜中、日付が変わって5月1日になってから搭乗、出発です。これを勘違いして、5月1日の夜に空港に行ったら、係員さんから「お客様のご予約は本日の便ではございませんが…」と言われちゃう訳です。

おっさんの知り合いでもこれをやった人がいましたし、やはり同じ様な状況だったのでしょうか、係員さんに喰ってかかってた人もいたとか。いやぁ、気をつけないと。もうひとつ、エールフランスの成田発パリ行きで、夜出る便がありますが、こちらは23時位だったかな、日付が変わる前ですから、そういう心配は無いんですけどね。

勘違いとは恐ろしいものですね。勘違いと言えば、先日ニュースサイトに出ていた、やはり勘違いの話。飛行機の中で、「インターネットでチェックインを済ませ、席もちゃんと決めてあったのに、違う席に座らされた」とCAさんに怒鳴り散らしてるお客さんがいたそうです。先輩の、チーフ格のCAさんが対応に出て、「そのインターネット・チェックインのプリントアウトを拝見できますか?」お客さんは書類を出して、書類の席番号とは全然関係無い所を指差し、「ほら、ここにちゃんと20Kって書いてあるだろ!」
よく見ると、確かにそこには20Kとは書いてあったものの、それは預け荷物の重さについて書かれた部分で、「スーツケースの重さは20㌔まで」という意味の「20K」だったのでした。この先輩CAさん、全身の力が抜けたそうです。そりゃそうだ。(こう書くと笑い話ですけど、勘違いで理不尽に怒鳴りつけられるCAさん達には本当、お気の毒な話です。)
まぁ、こんな勘違いのお客さんもそうしょっちゅういる訳じゃないでしょうが。

怒鳴り散らす話ばっかりですね。今度は微笑ましいネタにしましょうか。
CAさんが機内で飲み物のサービス中。「お飲み物でございます」何千、何万回と繰り返した言葉でも、弘法も筆の誤り、猿も木から落ちるの例え通り、この時に限って噛んでしまいました。「お飲み物でござる…ります」お客さんもノリ易い人だった様で、恭々しく飲み物を受け取りながら一言。「かたじけない。」まぁ、これは鶴瓶師匠のネタですが。

パリ在住の日本人同士も会話は当然日本語でするんですが、時々フランス語の単語が混じる事もありまして。中には「あれ?これって日本語でなんて言うんだっけ?」なんて人もいます。おっさんは以前書いた通り、日本語を使い過ぎて、横文字に慣れてる今の日本の方と話が噛み合わない事の方が多いですが。5月5日に書いた話も、「ヒナゲシ」について色々と話をした後で、「あ、なんだ、ポピーの事か」なんて言われた事がありますし。そのうちリンゴについて話したら、「あ、なんだ、アップルの事か」とか言われる様になるんじゃ…いや、それはもうわかったから。
昔々、飛行機に喫煙席があった頃の事(えらく古いな)、日本に帰る人を空港に送って行きました。チェックインカウンターで、「喫煙席?禁煙席?」と聞いたら、「え?あ、えーと、き、キ?…キツエンセキで」。喫煙席を取りました。そうしたらその方、座席番号の所に煙草マークがあるのを見て、「あの~、ノースモーキングシートが良いんですが」。そりゃキンエンセキでしょうに。

話は変わりますが、日本からパリにみえる方は大抵シャルル・ドゴール空港に着く訳ですね。飛行機が着陸したら、滑走路や誘導路の周りの芝生を眺めてみませんか?飛行機の窓から野兎が見える事が結構ありますよ。シャルル・ドゴール空港と周辺敷地には約五万羽の野兎が住んでいると言われてます。どうやって数えたんでしょうかね?まぁ、単位面積当たりの兎の数と総敷地面積から算出するのが普通でしょうが。
グレーっぽいのや茶色いのは周りの色に溶け込んで見づらいですが、黒兎は目立ちますから、割と分り易いんじゃないでしょうか。

黒兎ねぇ。凸凹黒兵衛とか?幾ら何でも古すぎないかい?蛸の八ちゃんとか、窓野雪夫君とか?日の丸旗之介、冒険ダン吉、月光仮面、ジャガーの眼、タンク・タンクロー…おっさん、本当は何歳なんだ?。

2011年5月10日火曜日

なかなかどうして。

村 三好達治

恐怖に澄んだ、その眼をぱっちりと見ひらいたまま、もうその鹿は死んでゐた。無口な,理屈っぽい青年のような顔をして、木挽小屋の軒で,夕暮れの糠雨に霑れてゐた。(その鹿を犬が噛殺したのだ。)藍を含むだ淡墨いろの毛なみの、大腿骨あたりの傷が,椿の花よりも紅い。ステッキのような脚をのばして、尻のあたりのぽっと白い毛が、水を含むで、はぢらってゐた。
 
どこからか、葱の香りがひとすぢ流れてゐた。
三椏の花が咲き,小屋の水車が大きく廻ってゐた。

高校の頃、この詩を読んで鳥肌が立ったのを憶えてます。本当に文字通り鳥肌が立った。ぞわぁっと。おっさんは好んで詩集など読む様な文学青年ではなかったので、これは国語の教科書に出ていて、授業中ゾワっとしてた訳です。そこへ、「この詩を読んでどう感じる?」と、先生がおっさん(勿論その頃からおっさんだった訳ではない)を指名したのですね。今思えば、結構確信犯的に指名したんじゃないかと。或いは愉快犯的にと言おうか。これって自意識過剰か?
で、おっさんは予習などする優等生ではなかったので、授業中に鳥肌立ててた事からもお判りの様に、そのとき初めてその詩を読んだのであって、前もって答えなど用意してませんでした。だから感じたまま、鳥肌立った理由をそのまま言ったのですね。

「世の中ってのは、(「世の中」にとって)細かい事なんかにはお構い無しに廻って行くもんなんですね」と。一応合格点を貰いました。

その時は本当にストレートな感想だけでしたけど、後になって考えがまとまりました。
死んでる本人(ここでは「鹿」)にとって、これはまさに生きるか死ぬかの問題、一大事なんですが、世間はそんな事お構い無く、いつもと変わらない。(葱畑で農夫が働き、花は咲き、水車は回り続ける。)普段、「世の中」「世間」「社会」という言葉をよく耳にも口にもしますけど、それって一体何なのか?一人一人の人間の集合体が「社会」じゃなかったのか?いつの頃からか「社会」「世間」という化物が一人歩きを始め、本来は大切な構成要素である筈の人間一人一人の事なんか見向きもしなくなり、それどころかそのちっぽけになってしまった人間を、社会という巨大な化物が押し潰してるじゃないか。(「鹿」は「犬」に噛み殺されていた)

と、高校生の頃のおっさんはこの詩を解釈した訳ですが。その頃から、この暗い、ヒネクレた性格は定着していたって事ですねぇ。しかし、改めてこうして文字にして読んでみると、ギレン閣下の演説みたいだ、という気もしたりして。とまぁそれはさて置き。

なんでこんな事を言い出したかというと、昨日の「西部戦線異状なし」から、ここへジャンプした訳ですよ、例によって。この映画のタイトル「西部戦線異状なし」は、実はその後「報告すべき件無し」と続く報告書の文面なのですね。この映画の主人公ポールは、戦場に出て初めて戦争の悲惨を知り、戦争を嫌悪しつつ戦死しますが、彼が戦死した日に部隊から指令部に出された報告書がタイトルになってます。「異状なし、報告すべき件無し」と。

とするなら、この「鹿」は「西部戦線異状なし」のポールであると同時に、「鉄砲玉の美学」の清であり、「イージー・ライダー」のキャプテン・アメリカであり、「人間失格」の葉蔵であり、「ジョニーは戦場へ行った」のジョニーであり、「異邦人」のムルソーなんじゃないか?或いはコリン・ウィルソン「アウトサイダー」を読んだ方ならゴッホやニジンスキーを挙げるかもしれませんね。ドン・キホーテ(ロマン派の解釈による)を加えてみたい気もします。相変わらずあちこち飛びまくりな事をお詫び申し上げますが。

で、その後(高校生の頃からですから三十年です)、他の方の解釈を眼にする機会もありまして、感じ方というのは人それぞれなのだな、と改めて思いました。

曰く、前連の、鹿の死体の描写の部分は色彩の要素が強調されているが、鹿は死んでいてもう動かない。後連は葱の香り(嗅覚)、花(視覚)回る水車(聴覚)などで「生きている」とわかる。「静」と「動」の対比、「生」と「死」の対比が際立っている…
前連の「死」の止まった時間に対して、後連の「生」の動いている時間と、そこに存在する物が鎮魂の歌を歌っている…。

こういう方々はどうしてこういう発想ができるのでしょうね。(ってかおっさんはなんでそういう発想しかできないんだ?)特に震災後、まぁ多分に変な所があるのは幾重にも事実であるとしても、日本の「社会」も、なかなかどうして…と思いますし、そう、喪われたものに対する鎮魂の歌を忘れない様な「社会」(んー、またこの言葉使っちまった)でありたいですよね。

2011年5月9日月曜日

ダメだ。もう寝よう。

さて本日は、パリ東駅。ここの所東駅づいてるというか。

パリにはパリ中央駅というのがありません。六つのターミナル駅を使い分けなければなりませんが、ここ東駅は文字通り、東に向かう列車の玄関口ですね。
2007年には TGV EST が開通して、東フランスのストラスブール、ナンシー、ランス、スイスのバーゼル、南西ドイツ方面への移動時間が短縮されました。1883年には、イスタンブールに向かうオリエント急行の一番列車を送り出した駅でもあります。

さて、ここでお馴染、ペール・スターク。
1847年から1849年にかけて、フランソワ・デュケネーとピエール・シャバネル・ド・セルメによって建てられた東駅は、パリの駅の中でもっとも古いものである。しかし、1852年に東駅へのアクセスとして通されたストラスブール大通りに面した最初の建物は、その後段々拡張されたが、現在の大規模な建造物全体の左側の翼の部分でしかなかった。現在も列柱、半円形の装飾窓、ネオ・ルネッサンス様式のパビリオン、そして特に彫刻の装飾が残されている。破風の頂上にある、ストラスブールの町を象徴する彫刻は彫刻家ルメール(1789-1880)の作品。中央の大時計は、ジャン・ルイ・ブリアン(1805-1864)の手になるセーヌ川とライン川を象徴する彫刻を伴っている。列柱の柱頭の装飾の中には、東鉄道区の列車が通る地方の様々な農産物が見られる。

しかし。1852年に東駅へのアクセスとしてストラスブール大通りを通したのはナポレオン三世時代のオスマン知事(ナポレオン三世皇帝の指示の下、パリを大改造した)であった事はここには書かれていないのですね。やっぱりペール・スターク、どこか抜けてる。

この東駅は、第一次世界大戦では西部戦線に向かう兵士を送り出しましたし(「西部戦線異状なし」ルイス・マイルストン監督の1930年の映画ですが。悲しい映画ですねぇ。この、同じレマルク原作、マイルストン監督のコンビで、1948年に名作「凱旋門」が撮られるのですね。)、第二次世界大戦の少し前には敵の爆撃に遭っても駅の機能が保てる様に地下ホームも造られました。そして現在、シャルル・ド・ゴール空港と東駅を結ぶ「CDGエクスプレス」の計画が進行中です。

映画の話序でにもうひとつ。この東駅はマルセル・カルネ監督の戦前の代表作、「北ホテル」の舞台になった同名のホテルからもそう遠くないですね。現在は北ホテルはカフェになってます。
更にもうひとつ。アガサ・クリスティの「オリエント急行殺人事件」は1974年にシドニー・ルメット監督で映画化されてますね。中東での仕事を終えてヨーロッパへ帰るポワロによる、列車内の殺人事件の謎解き。

まぁ、いいんですけど。これをはじめると本当にキリが無いですね。
この辺にして、明日に備えて、寝る事にしよう。おやすみなさい。

2011年5月8日日曜日

わざわざパリで中華を食べなくても…という方はスルーして下さい。

さて、昨日は中華に行きましたよ。パリ東駅の近くで昼食時になったらやっぱりここ。
と言っても Traiteur Asiatique という奴で、カウンターにこんな風に料理が並んでて、注文すると電子レンジで暖めて出て来るスタイル。日本にこういうのありますかね?少なくともおっさんは見た事ありませんが。まぁ、日本で言えば、弁当屋さんにテーブルを並べて、その場でも食べられる様にしたという感じでしょうか。持ち帰り(emporter=アンポルテ)もOK、席もあってそこで食べる事(sur place=シュル・プラス)もできる。旅行に来て、名物料理、地元の一般的な食事、珍しい食べ物、色々食べて、「でも何となく疲れて来ちゃった」と言うような方には心強いと思いますので、紹介しときます。「今日はもうフレンチなんか食べる気にならないな、中華の惣菜でも買ってホテルで食べよう」とか。因みに日本では「テイクアウト」ですが、これはアメリカ語で、フランスではイギリス語で「テイクアウェイ」という事が多いですね。
さて、おっさん愛用のこの「簡易中華(?)」のメニューですが。

Menu Midi 昼のセット(と言っても16時までOK)5ユーロ
揚げ春巻きx2、炒飯または白飯または焼きそば、料理一品

Menu Vapeur 蒸し物セットとでも訳すんでしょうか。点心セットですね。5ユーロ90セント
餃子または焼売8個、炒飯または白飯または焼きそば、デザート

Menu Complet フルセットとでも訳しましょうか。6ユーロ20セント
上記昼のメニュー+デザート

Menu Fruits de Mer 海の幸セット 7ユーロ60セント
海老サラダ、点心または揚げ春巻きx4、炒飯または白飯または焼きそば、魚または海老の料理一品、デザート

さてこれを安いと見るか、高いと見るか。ユーロの換算レートにもよりますが、フランスは一般的に外食は高いです。パリのカフェのランチセットなんか軽く15~20ユーロします。2000~2500円のランチセットって…?そんな中ではこれはかなり安い部類に入ります。そして数ある電子レンジ中華の中でもここは特に安い。おっさんが注文したのはやっぱり、その中でも一番安い「昼のセット」。揚げ春巻き、炒飯、シェフのチキン。
外国人の間では「日本は物価が高い」と言うのが定説になってます。高度成長の頃の日本のイメージをまだ引きずってると言おうか。まぁそりゃ日本だって高い食べ物屋さんはいくらでもありますけどね、その代わり安い店も一杯ある。天屋の天丼五百円、かつ屋のカツ丼五百円、吉野家牛丼380円、牛鍋丼なら280円、松屋牛めし320円、もっと安いのがよければ立ち食い蕎麦200円位からありますか?
パリにはこういう安い選択肢が無いんですよね。二百円というと1ユーロ70セント、パリのカフェでコーヒー一杯の値段ですもん。それもカウンターで立ち飲みの。(カウンターと席の価格が違うと言う話は「餡かけ 下膨れ」を御参照下さい。)五百円で4ユーロ30セント、ケバブのサンドイッチにやっと届くかどうかという金額ですね。
そんな訳で、こういった「電子レンジ中華」はパリ中あちこちにありますので、パリ旅行を計画中の方、どうですか?

で、この「新世紀」さんは、バイキングもやっとります。同じ店の中で電子レンジ部門とバイキング部門に分かれてる訳ですね。これまたリーズナブルな価格設定で、昼9ユーロ50セント、夜12ユーロ。



まぁ、バイキングの方は懐具合の関係上そうしょっちゅう利用する訳じゃありませんが。

序でに言うと、「バイキング」は和製英語で、日本以外では通じませんので念の為。この言葉の由来はリチャード・フライシャー監督、カーク・ダグラス主演の1957年の映画「バイキング」だそうで。9世紀、イングランドとバイキングの戦いを描いたこの映画の中の、バイキングさん達の、船の上で食べ放題・飲み放題の食事シーンからヒントを得て、日本で初めて「食べ放題・飲み放題」のビュッフェ形式を提供した帝国ホテルさんがそう命名したそうですね。(そういえば、特に英語圏の方はミルフィーユの事をナポレオンケーキと呼ぶ事がありますが、この「ナポレオン」という呼び方の起源も帝国ホテルさんだそうですが。)フランス語でビュッフェ・ア・ヴォロンテ、Buffet a Volonte、上の「新世紀」さんの写真の看板にもそう書いてあります。

パリで中華バイキング?でもまぁ日本の中華バイキングとの違いを研究してみるとか、どうでしょう。場所はパリ東駅のすぐ隣です。

新世紀 8,rue du 8 Mai 1945 75010 Paris