2011年2月28日月曜日

昼間だったら良かったのになぁ。

さてレンヌに行って参りました。出張先はモンサンミッシェルだったんですが、帰りの列車の都合でレンヌに一泊。
レンヌというと何を思い浮かべますかね?

フランスを個人旅行した人なら「モンサンミッシェルに行く時TGVからバスに乗り換えた所」でしょうか。
サッカーファンなら「稲本がいた所」ですかね。
歴史好きの方は「ウィリアム征服王が攻め落とした町、シャルル8世とブルターニュ女公アンヌの婚約の地」
教育関係者や留学経験がある方なら「古くからの大学町」
佐藤賢一氏の「双頭の鷲」を読んだ方は「あの、ベルトラン・デュゲクランの…」ですか。

おっさんとしてはやっぱりあのジョルジュ・ドラトゥールの「新生児」なんですが。以前家族でドライブに行った時、コースの効率から言えば遠回りになるにもかかわらず、レンヌ美術館のあのたった一枚の絵を見たいが為にレンヌに寄り道したのを思い出します。今回は残念ながら美術館が開いてる時間には行けなかったんですけどね。あー残念。

17世紀、バロック芸術全盛の時代。バロックといえば、激しい色彩とダイナミックな構図の、苦悶の表情を浮かべ血をダラダラ流した殉教者像がやっぱり思い浮かびますが、同時代のフランス絵画は抑えた色調の、動きも少ない落ち着いた画面の古典主義。
バロックを拒否するかのように独自の古典主義を創り上げたフランス人は独創的なのか?それともやっぱり単にヒネクレテいるだけなのか?
それでもバロック芸術はフランスの画家に何の影響も与えなかった訳ではなく、フランスバロックというのもやっぱりある訳です。
その中でも特異なのがこのドラトゥールですね。バロックの巨匠カラヴァッジオの明暗の対比の表現の影響を受けているにもかかわらず、独特の世界を創り上げた画家です。ルーブルの「聖ヨセフ」とか「マドレーヌ」とか。(聖ヨセフなんか、一体どうやったらこんな風に描けるんだ?と思いますが。)

この画家の代表作「新生児」、この一点を見るためだけでもレンヌに行く価値ありです。できればポンタヴァンまで足をのばしてゴーギャンの黄色いキリストのモデルも見に行きたいっ。しかしカネとヒマが無いしなぁ。

2011年2月27日日曜日

別にヨーロッパ人をバカだと言ってる訳じゃありませんよ。

トヨエツ信長も2月6日放送分(でしたっけ?)で死んじゃいましたねぇ。
信長は「尾張の大うつけ」でしたが。「うつけ」とは「虚」と書いて、(やっぱりホロウとか読みたくなりません?)文字通り虚ろであること、つまり中身が無い、アタマ空っぽ、的な意味で馬鹿の事を表わすんだそうですが。

もう一つ馬鹿を意味する言葉に「たわけ」がありますね。漢字で書けば「戯け」。これは馬鹿な事を言う、馬鹿な事をするという意味の「たはく」という言葉から、馬鹿な事を言ったりしたりする人を「たはけ」と言ったのが語源とか。
この「たわけ」にはもう一つ語源説がありますね。俗にそう言われているというだけで、正しくは無いんだそうですが、「田分け」という説。
日本は昔、長子相続制でしたね。長男が次期家長としてすべてを受け継いだ訳ですが、例えば複数の子供達に資産を分配して相続させるとどうなるでしょう?平等ではありますが、問題が起きますね。一族の勢力が分散してしまい、相対的に力が弱まってしまいます。増してその一族が一致団結すればまだしも、対立なんかしたら共倒れの可能性もあります。
一族の団結を乱し、力を分散させて弱めてしまう様な馬鹿な事、「田」つまり「土地」を「分けて」相続するような事をする人を「田分け」と言ったのだと。
語源としては正しくないとしても、意味の上ではナルホド、ですね。

そして、これはフランスの素であるフランク王国に起こった事でもあったのですね。フランス人の御先祖様のひとつであるフランク族をはじめとするゲルマン系の法律は分割相続制でした。「馬鹿な事」であるとは思いませんが、ゲルマン法の弱点には違い無いですね。
511年、フランク王国初代国王クロヴィスが亡くなると領土はテウデリヒ、クロドメル、ヒルデベルト(サンジェルマン・デ・プレ教会のもとになる修道院を創った王様ですね)、クロタールに分割相続されました。この時はほかの兄弟が次々と死んでしまい、クロタールの下、再統一されました。そのクロタールが死ぬと、また四兄弟に分割相続、王族同士の抗争や暗殺が続き、この混乱に乗じて豪族が力を増し、実権は宮宰(首相兼財務相、といった所でしょうか)に握られてしまいます。この宮宰であったカール・マルテルが741年に死ぬと、また三兄弟によって(今度は領土ではなく宮宰としての支配地域ですが)分割相続、末弟グリッポンは暗殺され、長兄カールマンが引退した後に全権を握り、更にクーデターで王位に就いたのがピピン短躯王ですね。カロリング朝の開祖です。
ピピンの息子、カールが、日本で言う「カール大帝」、フランス語でいう「シャルルマーニュ」(ノートルダム寺院の前に銅像がたってます)ですね。フランク王国を国力も領土も最大にしたこの王様には三人の王子がありましたが、次男ピピン、長男カールと相次いで亡くなり、残った三男ルイとそのまた三人の王子達の間でさらに揉めた後、843年ヴェルダン条約、870年メルセン条約を経て、現在のフランス・ドイツ・北イタリアの素になる境界が定められますね。

さて、もしもカール大帝のフランク王国が分裂しなかったら、現在の西ヨーロパは一体どんな様子になっていたんでしょうねぇ。

2011年2月26日土曜日

そんな訳でおっさんのブログ。

この齢になっても、まだまだやってみたい事もあるいろいろある訳ですが。そんな訳でブログ辺りから初めてみようかと。パリの片隅から四方山話をちまちまと。

2月も末になって参りました。パリは雨のシーズンで、毎日はっきりしない天気が続いてます。日本で言えば「春の長雨」「一雨ごとに暖かくなる」ってとこでしょうかね。この雨の季節が過ぎても、パリの3月はやっぱりかなり寒いんですけどね。

でもまぁそろそろ水仙も大分伸びてきたし、山桜も咲き始めたし、春もそう遠くないという事ですな。

昔、「春先は変な人が多いから気をつけなさい」とか言われませんでした?このブログを書いてるおっさんは「変人」ではあるかも知れませんが、異常ではないと思います…よ。怖がらなくていいからねぇ~?

とりあえず今日はテストがてら御挨拶。タイトルにもあるように、ぼちぼちと始めたいと思ってます。