古いギャグだ。古過ぎる。
いつか鉄道がストで、ダイヤもぐちゃぐちゃになってた時にナントに出張して、
上司「どうだ、無事着いたか?」
おっさん「ええ、何とか。」
なんて会話もありましたが。別に狙った訳じゃなく、本当に「何とか」だったからそう言っただけなんですが。
出張ですよ。目的地は?「ナントだろ?」と答えた方、半分正解です。ナントの近く、ロッシュ・スュル・ヨンに行って参りました。
しかしながら、ロッシュの町はパリからまずTGVで約二時間、ナントで乗り換えてまた30分の所にあります。この乗り換え時間をおっさんが見逃す筈は無い。
ナントの町はブルターニュ公の城で知られてますね。ペイ・ドラ・ロワール地方の首府、ロワール・アトランテイック県の県庁もありますが、この辺りは歴史的にはブルターニュ公国に属し、元はパリと同じ様にケルト人の定住、ガリア化、ローマ人の支配を経て、10世紀、ブルターニュ公アラン二世による「ブルターニュ公国」の歴史が始まるのですね。
城の入り口の前にある解説板。
15世紀、ナントはブルターニュの首都となった。ブルターニュ公フランソワ二世とその娘アンヌはナントにに宮廷を置き、この城を造らせた。町に向かって開かれた記念碑的な城門と共に、この城はブルターニュ公の権勢を象徴している。1532年フランス王国によるブルターニュ公国併合の際に、この城はフランスの王城となった。
そしてこの城の紋章の解説。まず王冠。そしてブルターニュ公国の紋章「Hermine」(エルミーヌ、オコジョの尻尾を象ったもの)。オコジョは夏毛は茶色、冬毛は白で、特に白い冬毛の毛皮は珍重され、王侯貴族、特に力のある人しか手にすることはできなかったのですね。ま、権力の象徴でしょうか。王様というと、よく「白テン」のマントを着てたりします。因みに言うと、トランプのキングも白くて所々黒い斑点のある毛皮の襟巻き(?)なんかしてますが、あれが「白テン」ですね。
で、アンヌ・ド・ブルターニュを象徴するグレイハウンド(猟犬)、アンヌ女公の銘句のひとつ、AMARI(私はそれを愛した)。
城の中庭では子供達が普通に遊んでます。
子供達にとっては、城の成り立ちもブルターニュ公国の栄光も、あんまり関係無いんでしょうね。両親や祖父母、地域のお年寄りからそういう話を聞いても「ふーん?」なんじゃないかな。もちろんそういう地域の歴史や文化に興味を持ってちゃんと調べる子もいるでしょうが。
地域の文化と言えば、ブルターニュ語もありますね。
城の解説書にも、フランス語の他にちゃんとブルターニュ語のもあるし、
ブルターニュ地方の鉄道にもやっぱり二つの言語での表示があるし、
「ブルターニュ・コーラ」なんてのもあります。
「ブレイス」(Breizh)というのは「ブルターニュの」という形容詞、またはそれを名詞化した物ですね。古くは「ブルトン」という呼び方が主流でしたが、最近「ブレイス」という言い方が多くなって来た様に思うんですが。
ナントの町は、かつてブルターニュの都であったレンヌを追い越して、首都の座を奪った訳ですが、ブルターニュ公シャルル二世には世継ぎが無く、一人娘のアンヌがブルターニュ女公となります。アンヌはフランス国王シャルル八世と結婚しますが、シャルルの死後、フランス王位を継いだルイ十二世(シャルルの義兄)と再婚します。ルイとアンヌの娘クロードはアングレーム伯フランソワ(後のフランソワ一世)と結婚、その息子のアンリが1547年フランス国王アンリ二世として即位した時、ブルターニュは完全にフランスの一部になったのですね。
その前、1532年にはフランス国王フランソワ一世がフランスとブルターニュを連合というか同盟(?)とする勅令を発してますし(ほぼ併合ですね)、
1598年にはアンリ四世が「ナントの勅令」を発して宗教戦争を収めた訳ですね。
子供達が遊ぶ中庭から見渡した城の中庭。
最後の画像の階段を下りると、こんな橋を渡って、
お堀端に出ます。ここもまた市民の憩いの場となってます。
城の近くにある宝石屋さんの「城」をかたどった看板。
なんか久々に行ったけど、いい町じゃないか。結構好きだわ。という訳で、またもや引っ張りそうな予感が…
0 件のコメント:
コメントを投稿