さて、二日間に亘るモン・サン・ミッシェルのネタが一段落した訳ですが。
以前モン・サン・ミッシェルを訪れた日本の方がふと漏らした素朴な疑問をひとつ。
「キリスト教って、キリスト様が唯一絶対じゃないんですか?大天使とか聖母とか、キリスト様以外の人や天使を祀るってどういう事ですか?」
成程。「キリスト教」なのにキリスト様以外の人に祈る事はキリスト様を裏切ってないかという事ですか。いささか極端な理論ではありますけど、ご本人はかなり不満な様子。
こういう事ってキリスト教文化圏に身を置いてみないと分からない時がありますね。まぁ、フランス在住のおっさんにしたって別にクリスチャンでもなし、生まれた時からキリスト教に親しんで来た人達とは当然感覚が違いますし。
この質問に、説明する言葉が咄嗟には見つかりませんでした。聖母や聖人、天使達に祈りを捧げる事はある程度当たり前なんですけどね。そこで、どう説明したらいいか考えてみた訳です。
例えばキリスト教という宗教を、会社組織みたいなものと想像してみたらどうでしょうかね。
勿論宗教と会社は違いますけど、あくまでも喩えとして。
キリスト教のトップはキリスト様です。(というか「父なる神」「私をお遣わしになった方」ですけど、三位一体の理論からすればキリスト様と言っても差し支えない筈…だと思うんですが。)
会社のトップは社長さんです。でも取引先、出入り業者、お客さん達、個人のエンドユーザー一人々々がいちいち直接社長さんに会いに行く訳じゃありません。その会社と取引する人達が接するのは専務や常務かもしれないし、部長・課長・係長・ヒラ社員、それどころかアルバイトの売り子さんかもしれません。でもそのバイトさんからであれ、その会社の製品を買ったお客さんは、その「取引」を通じて会社組織と繋がっている訳で、その「会社」のトップである社長さんとも必然的に繋がっているんですよね。
同じくキリスト教でも、どこか田舎の小さな村の教会でも、祈りを捧げた人はちゃんとその祈りとキリスト教信仰を通じてキリスト様と繋がってるって事で…いいでしょうかね?
聖母マリアが副社長に相当するか、大天使が専務か常務に相当するか存じませんが、その「祈り」「信仰」を通じてキリスト様とちゃんと繋がっている以上、これはキリスト様に対する裏切りにはなりませんよね。
なんて喩え話を思いついた訳ですが。本物のクリスチャンの方々からすると「いや、それは違う」なんて御意見が出て来るかも知れませんけど。如何なモンでしょう。
仏教にしても、お釈迦様の入滅後56億7000万年後に世を救いに現れる弥勒菩薩とか、それまでの間六道輪廻する衆生を救う地蔵菩薩とか、現世に苦しむ人々の病を癒す薬師如来とか、「役割分担」みたいなものもありますしね。
こんな事考えた事も無くて、「何故キリスト以外の人を拝む」と訊かれた時は驚きましたけど。人間の発想というのは本当に人それぞれですねぇ。
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