一泊の出張のネタとは思えないナント・ロッシュ編のトリです。
そう、ナントに行く事があったらここに行きたいと思ってました。
「50人の人質」通り。お察しの通りストーリーがあります。
元は沼地だったこの場所に、ナントの町の発展と共に、新たな市街が造られて行ったのが13世紀頃です。その頃はまだ、ナントの町を突っ切ってエルドル川が流れていました。
「西フランスのヴェニス」と呼ばれたナントの町から水路が消え始め、埋め立て工事が始まるのは20世紀に入ってから、特に1929年のエルドル川とロワール川支流部分の埋め立て工事は大規模なものでした。この辺は12/14の記事を御覧頂きましょうか。ある程度の船なら航行できる地下水路なんかもあるんだとか。
そしてブルターニュ大公城の城壁の解説にも有る通り、「二つの世界大戦の間の時期」つまり1929年のこの工事に携わったのはドイツの建築会社でした。第一次世界大戦の戦後補償の一環だったんですね。そしてこのときに工事の指揮を執ったのは技師のカール・ホッツでした。
埋め立て工事は終わり、ホッツはドイツへ帰ります。そして第二次世界大戦。
フランスを占領したドイツ軍のナント方面司令官として1940年にこの町にやって来たのは…ホッツでした。当時のナントの町の基礎を造り上げた人ですからね。この町の事を知り尽くした彼は司令官として適任だったんでしょう。しかしホッツは1941年10月20日、ジルベール・ブリュストラン、マルセル・ブルダリア、スパルタコ・ギスコの三人のレジスタンス兵によって暗殺されてしまいます(レジスタンスについては3/9、8/2、11/17辺りをご参照下さい)。そしてその報復として、48人のナント市民がナチスの手によって処刑されたのでした。
人の世というのは何でこういう風になっちゃうんでしょうね。戦後補償の為であれ、ナントの町に多大な貢献をした人じゃないですか?増して、工事を終えたホッツがドイツに帰ったのは1933年、それから10年も経ってません。当時を知る関係者だって多かっただろうに。「やぁ、司令官なんて言うからどんなコワモテが来るのかと思ったら、あんただったのか!元気だったかい?」なんて話には…やっぱりならないんでしょうかねぇ。まぁ、実際にホッツを暗殺したレジスタンス兵達はパリの部隊の所属だったそうですが。
そして広場の名前「50人の人質」に対して、実際処刑されたのは48人。どういう事情でかは定かではありませんが、50人のうち2人は助かったんだそうです。
それにしても。松田優作「探偵物語」最終回の長回し、「何でみんな殺しちゃうんだよ…」なんていう台詞をふと思い出しましたが。
おっさんが行った時には、この50人の人質の名前を刻んだ記念碑の台座に、学生さんらしき若い人達が、近くのハンバーガーショップで買って来たらしい包みを広げて談笑してました。この記念碑の意味が、それだけこの町の人々の中に自然に受け入れられてるって事でしょうか?それとも忘れ去られてるんでしょうか。
フランス共和国
1940-1944年の間、フランス国政府と呼ばれるものの名の下に行われた人種差別、ユダヤ人排斥主義による迫害、人道に対する罪の犠牲者達の記憶に捧げる。
決して忘れてはならない。
フランス共和国でなく「フランス国」というのはヴィシー政権、南フランスを中心に作られたドイツの傀儡政権の事ですね。11/17の記事を御覧頂ければ。ナントの町があるフランス西部大西洋沿岸地域はヴィシー政権の勢力範囲ではなくドイツ軍直接支配地でしたが、「ドイツにやられた、支配者ドイツによって強制された」だけでなく、そこに協力するフランス人も確かにいた訳で、フランス人は占領され、支配されていたから「従わざるを得なかった」だけで済む話ではないのでしょうね。
やっぱりフランスにも日本で言ったら白洲次郎とかに当たる様な人っていたのかな?結構興味があったりして。
さて、これでナントの町を後にして、パリへ帰ります。
ナント土産といったらやっぱりこれかな。
と言ったって結局自分で飲むだけですけどね。
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