2011年12月14日水曜日

城壁を一回り。

さて昨日は一度に書ききれなかったので一旦切りましたが、ナントのブルターニュ公城の続き。


ブルターニュ公国

ブルターニュ公国の始まりは10世紀に遡る。長いイギリス依存時代の後、13世紀にフランス支配下となる。ブルターニュ公はフランス国王に臣従したが、かなりの自立性を保っていた。14世紀末から15世紀中にかけて、公は貨幣鋳造、軍備増強、ヨーロッパの諸強国との外交関係の維持など、独立国家としての力を強めていった。この時代にはブルターニュ公国の宮廷は各地を移動しており、公はナントもだが、他にもレンヌ、ルドン、シュシニオ、ヴァンヌ、ドル、フジェール、ディナンやサン・マロにも滞在していた。


城門の守り

この城門は、城に三つある出入り口の内の主たる物である。(出入り口は)城壁の弱点であり、元は墜とし格子と、シーソー式の跳ね橋に守られた二つの扉があった。馬車と騎兵の為の大扉と、歩行者が通る為の小扉である。跳ね橋の前にある固定された木の橋は1770年に石橋に代えられた。


18世紀頃の城の様子。右の図のワインレッドは15世紀建築部分、斜線部分は18世紀に破壊され、青は15世紀以降の建築物。

現在のこの歴史的記念建造物は主には最後のブルターニュ公(訳注:フランソワ二世)の時代の作品である。15世紀末に、ブルターニュ公国の独立のために戦うという意味においては重要な要塞として、そしてまた宮廷の面からは正に宮殿として建てられている。


ロワールの城?

15~18世紀
城のすぐ下を流れるロワール川の支流は、古代から人と荷を運ぶ主要な水運路だった。

19世紀
1860年頃、川岸は商品の積み下ろしに使われると共に、露天の積荷置き場になって行った。ロワール川沿いに整備されたナント-サン・ナゼール間の鉄道は、(訳注:旅客運輸はともかく)、物資の運輸に関してはまだ水運に取って代わってはいなかった。

2004年
20世紀前半、ナント中心地の水路は埋め立てによって消えて行った。城周辺の美観の整備が行われ、(訳注:現在では防衛の意味の無い)純粋に景観の為の堀が造られている。


二つの塔を持つ城

城門は城の一番の弱点である。これを守る為、ブルターニュ公フランソワ二世統治時代に「雌鹿の脚」と「パン焼き場」と呼ばれた二つの塔が造られた。二つの塔は城に要塞としての側面を与える事に寄与している。正門の上にあった尖塔は17世紀に鐘楼に取って代わられた。同じ頃、塔は牢獄と兵器廠となった。

城門の二つの塔については昨日の画像を御覧頂きましょうか。


ジャコバン塔

この塔は18世紀に英国兵を収容する牢獄でもあったので「イングランド塔」とも呼ばれている。
現在は砲台として整備されているこの塔の頂は、何度かその姿を変えて来た。考古学的調査によって、15世紀にまで遡るこの建物の元の正確な大きさを知ることができる。それはこの塔のすぐ近く、「雌鹿の脚」と「パン焼き場」として残っているものよりも更に大きなものだった。


フェイドー島はもう島ではない

1850年
フェイドー島は、ロワール川を渡る主要なポイントだった。ロワール川はナントでいくつもの支流に別れていた。

1940年
二つの世界大戦の間の時期、ロワール川の北側の二つの支流の埋め立て工事が行われた。フェイドー島はもはや島ではなくなり、ナントの町は根本的にその様相を変えた。

2004年
しかし島の形は、整備された、尖った合流地点で今でも見分ける事ができる。


小政府

「小政府」はフランス国王フランソワ一世の命によって建てられ、国王のナント滞在中の住居として使われた。この建物の屋根裏部屋から直接胸壁に出る事ができた。
フランソワ一世はブルターニュ女公アンヌの娘・クロード・ド・フランスとの結婚によりフランスとブルターニュの永続的同盟を得る事ができた。


LUの塔、二つのうち今残るのはひとつだけ

1895年
1885年に城の向かいのロワール川岸沿いに建設された、このLU(ルフェーブル・ユーティル)の名で全世界的に有名なこの工場は1986年までここでビスケットを造っていた。特に「プチ・ブール」が良く知られている。

1911年
1905年から1909年にかけて、工場の正門を示す為、建築家ブリュイセンが先端にランタンを頂く、ビスケットのパッケージを象った二つの塔を加えた。そして二つの塔はナントの工業力の象徴していた。

1998年
90年代に塔のひとつは取り壊された。工場はナント郊外へ移転した。残った塔と建物は市の所有となり、復権の後は「Lieu Unique(唯一の場所)」と呼ばれる国立文化・演劇センターとなった。


ナントの町の最初の公共の遊歩道

嘗ての町の城壁外にあった空き地、サン・ピエール通りとサン・タンドレ通りは18世紀に遊歩道として整備された。遊歩道は城の下を流れるロワール川と、(訳注:城からやや北に当たる)エルドル川の間に広がる壮大な風景を描いていた。遊歩道は造られた時代からほとんど変わっておらず、マロニエやナラが植えられ、彫刻で飾られている。

城壁の一角を成す建物。ここには鍛冶場があったとか。で、この1832年当時の様子を表した絵画と、今の建物を比べてみると…やっぱり同じ。当たり前か。


城壁から見下ろす街並。


そんな訳で城壁を一巡り。あー疲れた。城壁を歩くのよりも案内板を訳すので疲れた。これ以上薀蓄傾ける気力も無い。
書き始めてから「しまった」とは思ったんだよなぁ。先人はこういう状況を的確に表す言葉を残しております。

「後悔先に立たず」。まったくだ。

0 件のコメント:

コメントを投稿