2011年11月26日土曜日

♪涙じゃ~ないのよ~♪

えらく古い歌ですねぇ。1955年か。まぁ工藤静香さんなんかも歌ってましたが。

子供の頃「カスバの女」という歌を聴いて、「なんでこの女の人は『地の果て』アルジェリアまで行ってしまったのだろう?」と不思議に思ってましたね。
というのも両親や祖父母が見てた懐メロ番組では大抵一番の歌詞しか歌われないからです。全部(三番まであります)の歌詞を読んで、やっと納得したのでした。

「カスバの女」エト邦枝

涙じゃないのよ 浮気な雨に
ちょっぴりこの頬 濡らしただけさ
ここは地の果てアルジェリア
どうせカスバの夜に咲く
酒場の女のうす情

歌ってあげましょ 私で良けりゃ
セーヌの黄昏 瞼の都
花はマロニエ シャンゼリゼ
赤い風車の踊り子の
今更帰らぬ身の上を

貴方も私も 買われた命
恋してみたとて 一夜の火花
明日はチュニスかモロッコか
泣いて手を振る後ろ影
外人部隊の白い服

つまりこの歌のストーリーを纏めると、元はパリの「赤い風車」の踊り子であったフランス人(あるいはフランスに来た外国人の可能性もありますが)の女性が身を持ち崩して?男に騙されて売られて?はたまた男を追って自らパリを飛び出して?流れ流れてアルジェリアに辿り着いた訳ですね。その頃はまだアルジェリアはフランスの植民地です。そしてカスバ(元々はオスマン帝国太守の城の事で、現在ではアルジェの旧市街地の事)での、パリからやって来た外人部隊の兵士と彼女との一夜の恋。

そういう事だったのか。まだアルジェリアがどこにあるのかも、フランスとアルジェリアの関係も知らなかった頃のおっさん(重ねて言いますが、その頃からおっさんだった訳じゃありませんよ)は、この歌の主人公が日本人女性だと思ってたから解釈に無理があったんですね。

今、パリに住んで、アルジェリア人の友人も何人もいますが、こうなるとは夢にも思ってませんでしたが。フランスとアルジェリアの事については10/18と6/10の記事を御覧頂きましょうか。

で、ここに出て来る「赤い風車」とは?フランス語で風車は「Moulin」赤は「Rouge」、そう、これですね。


1889年10月5日、「フランス王女のダンスホール」の跡に、オレールとジドラーは「ムーラン・ルージュ」を開いた。庭には猿が放し飼いにされ、横腹が動く巨大な木製の象がオーケストラの上を覆い、劇場の舞台ではムーア人の踊り子達が跳ね回っていた。ラ・グルーに率いられたチャ・ユ・カオ(女ピエロ)、ジャンヌ・アヴリル、そして特にカドリユ・レアリスト(アリス・ギーによる短編無声映画)等がムーラン・ルージュを大成功に導き、トゥールーズ・ロートレックの絵画とポスターによって永遠の物となった。1907年1月3日、パントマイム劇「エジプトの夢」は一大スキャンダルを引き起こした:単純な文字の並べ替えでイシム(Yssim)と名乗った彼女の恋人ミッシー(Missy)の横で、薄衣を纏ったコレットが主演を務めた。彼女の前夫、この作品の共同作者でもあったウィリーは、観客の罵声の中、舞台を後にしなければならなかった。

さて、ややこしい解説ですね、相変わらず。
通常「Blanche(ブランシュ)」と言えばフランス王女を意味します。従って、特定の誰という事ではないのですね。同じくフランス王太子の事は「Dauphine(ドーフィーヌ)」と言いますが。

モンマルトルの位置からして、本当に王女がいた時代に「王女のダンスホール」があったとは思えないので、これは単なる店の名前なんでしょうかね。その後にできたのが「ムーラン・ルージュ」。創立者はカタロニア人ジョセフ・オレールとシャルル・ジドラー。オランピア劇場のオーナーでもあり、競馬関係の元締め(?)でもあり、当時はまだ珍しかったジェットコースターを造ったりと、エンターティメント方面で活躍した人です。

ラ・グルーとは後の所謂「フレンチ・カンカン」の初期のダンサーですね。ロートレックも彼女の舞台のポスターを描いてます。ジャンヌ・アヴリルもまたロートレックのモデルで有名なカンカン・ダンサーですね。子供の頃虐待を受け、家を飛び出して放浪していたジャンヌを治療したのはフロイトの恩師、ジャン・マルタン・シャルコーでした。

コレットは作家で、「青い麦」や「クローディーヌ」のシリーズ等を書いた人ですが、パントマイムなんかも含め舞台でも活躍してました。彼女の「恋人」ミッシーというのはベルブーフ候爵…ではなくて「候爵夫人」の方でした。彼女の元夫ウィリーもバイ・セクシャルだったそうですが。複雑な関係だ。まぁ「性の解放」を叫んだ彼女らしいですが。

現在のムーラン・ルージュのダンサー団は「ドリス・ガールズ」といって、70人くらいのダンサーがいるんだそうですね。女性の平均身長が176cmとか。男性のダンサーはやっぱりゲイの人が多いとか。

昔は日本の団体ツアーなんていうと大抵ムーラン・ルージュのショーが組み込みで入ってたもんですがね。今はそうでもなくなりました。今は日本の方は団体より個人旅行者の方がずっと多いですからね。ムーラン・ルージュを見たい人も、そうでない人も、人それぞれ。

映画「アメリー」のヒット以降は、モンマルトルはクレーム・ブリュレのカフェ、「Cafe Deux Moulins」や食料品店「コリニョン」なんかの方が有名になった感がありますね。


これだっていい加減古いですけど、今でもカフェ「ドゥ・ムーラン」にクレーム・ブリュレを求めてやって来るファンも多いですよ。コリニョンの方は、「コリニョン」と書かれた看板はもう無くなってしまいましたが、店の佇まいは映画のまま。やっぱり「アメリー」関係の絵葉書やポスターなんか売ってたりして。

ムーラン・ルージュの向かって右の坂を登るとカフェ「ドゥ・ムーラン」がありますから、ファンの方、行ってみますか?

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