2011年11月5日土曜日

歓楽街と参道口の間に。

大きな寺院のお膝元って、どうして歓楽街が多いんでしょうね。
日本なら上野、浅草、川崎…

パリならマドレーヌ寺院の裏とか、モンマルトルとか。
そのモンマルトルの一角、ムーランルージュの近く、クリシー広場です。


この記念碑の下には例のアレがありますよ。コレ。


このアカデミスムの記念碑は1814年の包囲戦の際にパリ防衛軍によって戦われた英雄的な戦闘を記念している。1854年と55年のローマ賞受賞者アメデ・ドゥブルマール(1826-1900)は、パリ市によって、芸術委員会の非常に厳しい審査の下、1863年に開かれたコンクールで優勝した。彼に対して、カルポーは現在その雛形がプチ・パレ・美術館に所蔵されているロマン主義的、奔放な作品を、オローは“吉日と凶日の間の流動”に支えられたナヴィセル(訳注:船をかたどった噴水の池)の上に取り付けられた石碑をそれぞれ出品した。1869年に完成したこの記念碑は、公式な序幕が為されなかった。1870年8月15日に予定されていた式典は戦争の為に中止された。こうしてこの記念碑は、新たな侵略の脅威にさらされていたフランスにとって予言的な意味をも得たのである。胸を張って剣を手にして、街を護る様に左腕を広げてモンセーは突撃し、塔の上ではナポレオン軍旗が振られている。後ろでは理工科学校の生徒の志願兵が防壁の残骸の上で息絶えている。オスマン男爵によって整備された街への賛美である、高さ14メートルにも及ぶ厳かな石の寓意像は、祖国のために死んだ人々の為の多くの記念碑の原型にもなったと考えられている。

さて、見事に記念碑のことしか書いてませんねぇ。まぁ、限られたスペースに書き込まなきゃいけない訳だから、細かい事までいちいち記載できないだろう事は分かってますけどね、それにしても。
ボン・アドリアン・ジャノット・ド・モンセーはナポレオン時代の軍人さんです。

ちょっと背景を書きますと、フランス革命後、自分の国に革命が飛び火してきちゃ堪らんと考えた周辺諸国は「対仏大同盟」を結成します。ナポレオンはあちこちで同盟軍を破り小康状態を得ますが(この辺の話は8/25の記事参照)、同盟軍を完全に破るには、やはりリーダーのイギリスを叩く必要がありました。イギリス本土への上陸作戦はとても無理なので(エジプトでもやられてますしね)、ナポレオンはイギリスの力を弱める為に大陸封鎖令を出して、大陸諸国のイギリスとの貿易を禁じます。これに従わなかったのがロシアで、ナポレオンは60万の大軍を率いてロシアに攻め込んだ訳ですね。

ところがロシアの焦土作戦と冬将軍に破れ、ナポレオン軍は十分の一にまで減ってフランスに帰ってきました。ロシア・プロシア・イギリスを中心とする敵・対仏大同盟軍は追撃して来ます。ナポレオンは失脚、退位しますが、ナポレオンからパリ防衛を任されたモンセー元帥はクリシーの防壁を守り通し、結局1814年3月14日、休戦になるまで持ちこたえたのでした。この時モンセー元帥が指揮したのは志願兵、理工科・獣医学校の学生、植民地兵などの寄せ集めで、お世辞にも経験豊かでもなく、訓練も行き届いていませんでしたが、「祖国を守る」という気持ちがそれに勝った訳です。

そりゃ記念碑のひとつも建てたくなりますよね。

その後、ナポレオン戦争の戦後処理の為に開かれたウィーン会議は各国の利害が対立して「会議は踊る、されど進まず」、その隙にナポレオンは島流しから脱出してカムバック…となる訳ですね。

「会議は踊る」1931年のオペレッタ映画をご存知の方も多い事でしょう。しかし、あのクリステル役のリリアン・ハーヴェイの眉の引き方って…

解説中「新たな侵略の脅威」とあるのは言うまでもなく普仏戦争ですね。

で、この記念碑のデザインをドゥブルマールと競いあったのがジャン・バティスト・カルポー、オペラ座正面の彫刻「ダンス」で物議を醸した人ですね。今はこの彫刻のオリジナルはオルセー美術館にあって、オペラ座にはレプリカがありますが。

オローってのはおそらくエクトル・オローの事でしょうね。ヴェルサイユ生まれの建築家、パリの中央大市場を造った人ではないかと。

そしてこの記念碑を造ったアメデ・ドゥブルマールさんは、割と地方都市での仕事が多かった様で、パリにはあまり作品はありませんが、ヴェルサイユのトリアノンなんかで見る事ができますね。

あー本当、ペール・スターク解読、勉強になるわ。まったく。

0 件のコメント:

コメントを投稿