2011年11月23日水曜日

パリの中国。

今まで中華街については何度か書きましたが。パリの中国建築についても9/20に書きましたが。

今日はもうひとつの中国のお話。


何て事無い通りに見えますけど、これはもう一つの「パリの中国」Rue de la Chine(中国通り)です。


サン・ラザール駅の北側には「ヨーロッパ地区」といって、ロンドン通りとかローマ通りとか、ヨーロッパの町の名前をつけた通りが集中している地区がありますが、この辺は「アジア地区」(と一般的に呼ばれているかは存じませんが)です。

で、「中国通り」。1730年の地図にはこの通りが既に載っているそうですが、その頃はまだ中国通りではありませんでした。このあたりの通りにアジア系の国々の名前がつくようになったのは19世紀だそうですね。

19世紀。日本は開国の時代です。日本が正式に「明治」の元号を掲げて新たな時代に第一歩を踏み出したのは1868ですが、それ以前から日本と外国の結び付きは始まっていました。
坂本竜馬が海援隊を率いて活躍したのが1865年から68年。
黒船来航は1853年。

1851年にはロンドンで第一回万博が開かれています。

1861年のロンドン万博開幕の頃に「文久遣欧使節団」がロンドンを訪れており、開幕式にも出席しています。この中に福沢諭吉さんがいた訳です。
使節団そのものは別に万博の為に渡欧した訳ではなく、開国に伴う各港の開港時期の交渉の為でしたが。
この万博には日本の展示コーナーがありました。
駐日公使オールコック氏が私的にコレクションした日本の文物を展示したものですね。ここに初めて日本の美術品が正式にヨーロッパに紹介された訳ですね。

そして1867年のパリ万博。日本が初めて国として正式に参加した万博です。
フランス皇帝ナポレオン三世の招聘を受け、日本「幕府」は幕末の混乱期にも拘らず、多数の展示品を出品しています。
この万博には薩摩藩と佐賀藩が幕府とは別に独自に出展してますが、その後西南戦争で九州勢がどうなったかは御存知の通り。

1873年のウィーン万博。日本「政府」が初参加した万博です。この頃には明治政府は外国文化・技術の吸収、日本製品の輸出等にも力を入れており、国を挙げての参加となりました。

万博等を通してヨーロッパで日本文化が知られる様になって来た、というよりも、日本文化はそれ以前からヨーロッパにブームを起こしており、その結果、万博開催にあたって日本に出展要請が来る様になった訳ですが。

この「日本趣味」は印象派以降の画家にも大きな影響を与えていますし、その前の世代、たとえばマネが描いた「エミール・ゾラの肖像」の背景に日本の「花鳥図屏風」みたいな物が描き込まれてたりします。

またもや話が逸れましたが、日本より一足も二足も先にヨーロッパに紹介された中国文化は17世紀後半に大流行してます。ルイ十五世下で流行したロココ芸術の中にも中国文化の影響が見て取れますね。


中国趣味って訳じゃないんでしょうが、ちょっと変わった装飾の建物。「中国通り」の入り口にあります。


昔、このあたりに実際に中国建築の建物があったそうで、それに因んで「中国通り」なんだそうです。

同じ理由によるのでしょうか、中国通りからそう遠くない所にある「北京小路」です。


この「中国通り」から「北京小路」へ行く途中の道に結構ガラの悪そうな兄ちゃん達が屯しててちょっと不気味でしたけど。

ま、おっさんも人から見れば得体の知れない変な奴かも知れませんしね。
「人の振り見て我が振り直せ」か。

今更遅いって気がしなくもありませんが。

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