2011年11月30日水曜日

ペテロとミカエル。

さて今日はちょっとパリを離れてモン・サン・ミッシェル。

でもモン・サン・ミッシェル修道院の話ではありません。やっぱりひねくれてますねぇ。
モン・サン・ミッシェルの参道の途中にあるサン・ピエール教会です。


教会の入り口にはジャンヌ・ダルク像があります。


708年、オベール司教が大天使ミカエルからのお告げを受けて開いたのがモン・サン・ミッシェルです。そして1425年、同じ大天使ミカエルのお告げを受け、百年戦争中のフランスを救うために立ち上がったのがジャンヌ・ダルク。モン・サン・ミッシェルとも縁浅からぬ人ですからね。

フランス語でサン・ピエール、イタリア語ならサン・ピエトロ、日本では聖ペテロですね。聖ペテロは天国の門番で、鍵を持った姿で表されます。


モン・サン・ミッシェルの頂上の修道院が天国なら、その入り口に当たる参道に門番の聖ペテロがいると。成程。

教会の祭壇。


教会の正面の外壁、聖母子像。この手の聖母子像は至る所にありますね。モン・サン・ミッシェルの村役場にもありました。


そして今度は教会の中、聖母マリアとそのお母さん聖アンナ。聖アンナから読み書きを教わるマリア様。これも聖母の生涯の中の一エピソードとしてよく語られる場面ですね。


そしてこの人、多分聖オベールさんでしょうねぇ。何も但し書きは付いてませんが、司教杖を持ってるし、モン・サン・ミッシェルに関係のある司教といえばやっぱりオベールさんじゃないかと。画像はありませんけど、モン・サン・ミッシェルの北側(裏側)にある聖オベールを祀った聖堂にも同じポーズの石の聖オベール像がありますし。


因みにパリのオペラ座近く、オベール通りにはRER(高速郊外鉄道)のオベール駅がありますけど、これは作曲家のダニエル・フランソワ・エスプリ・オベールに由来する名前で、この聖オベールとは関係無いんですね。

こちらは聖ロック。聖オベール像と対になる様に飾られてます。


14世紀の聖人で、ペストが流行った時、フランスからイタリアへの旅の途中、多くの人々の病を癒したという伝説のある人で、今でも治癒を司る聖人ですから、ルルドの泉の様に、「病気を治して下さい」と祈りに来る巡礼さんも多いモン・サン・ミッシェルにはやはり縁が深いですね。
ロック自身も一時はペストに倒れますが、病に伏っている彼の元に犬が毎日パンを持って来てくれたという伝説もありますから、聖ロックの足元にはパンを銜えた犬がいますね。そして服の裾を持ち上げて腿のペストの跡を示しています。時には天使がこの傷に香油を塗っている図柄の絵画や彫刻もあります。

さて、前置きだけで結構な量になっちゃいました。では本題は明日に続く。

2011年11月29日火曜日

オリンピア?それは英語読み。

フランス語では「オランピア」と読みます。

これは有名な劇場ですからね。御存知の方も多いでしょう。シャンソンのコンサートで有名なオランピア劇場です。


1888年、ム-ラン・ルージュの創始者であるジョセフ・オレールはこの場所にジェットコースターを設置した:その人気にもかかわらず、ジェットコースターは、これを危険と判断した警視庁によって閉鎖された。そしてオレールは劇場を作らせたが、これは「メラックとアレヴィのオペラグラスから覗いたオリンポス山、オッフェンバックから水彩までの400㎡」を思い起こさせるという内装を施したものだった。この、パリの最初の「ミュージック・ホール」はサーカス、バレエ、オペレッタ、歌のステージを提供し、ラ・ベル・オテロ、リアーヌ・ド・プジーやラ・グルーで名声を得、ミスタンゲット、マックス・ランデル、モーリス・シュヴァリエ、ダミアやピエロ「グロック」がそれに続いた。1928年には映画館となり、1954年、オランピアはブルーノ・コカトリクスの経営の下、再び扉を開いた。全面的に改修され、2000席を擁し、その後このミュージック・ホールはフランス、そして外国の数々のアーティスト達の舞台神話を産む事となった。

…これまた良く解らんな。アンリ・メラックとルドヴィック・アレヴィは共に劇作家、彼等の描くイメージのオリンポス山とは一体どんな風景だったんでしょうね。「地獄のオルフェ」(日本で言う「天国と地獄」、フレンチ・カンカンのバックの音楽)の作曲者オッフェンバックから水彩の400㎡というのは意味不明。いくら調べてもオッフェンバックから水彩に繋がる糸口が見当たらないんですけど。400㎡といえば20mx20m。ちょうど舞台の広さ位かな?

オレールさんはムーランルージュで出て来ましたね。

さてラ・ベル・オテロとはカロリーナ・オテロ 、スペインのダンサー、華麗な男性遍歴の末、6人を自殺に追い込み、彼女を巡る決闘も起きたとか。

リアーヌ・ド・プジーもダンサーで、ラ・ベル・オテロと張り合える程の悪女、しかも両刀遣い。

ミスタンゲットはその脚線美で一世を風靡した「レビューの女王」。

マックス・ランデルは後のチャップリンを思わせる様な映画プロデューサー、俳優、喜劇王。

モーリス・シュヴァリエはイヴ・モンタンやフランク・シナトラを思わせる様な歌手・俳優。

ダミアは謎に満ちた歌手、代表曲「暗い日曜日(Sombre Dimance)」はフランスでは放送禁止、日本では発禁。

グロックはスイス出身のピエロ役者、60年の舞台生活で2500曲以上を作曲、10種類以上の楽器を奏で、15ヶ国語で演じる事ができたとか。

そしてブルーノ・コカトリクス。この人の時代にエディット・ピアフ、ダリダ、イヴ・モンタン、ジョニー・アリデー等々、有名所が次々オランピアの舞台に上ります。

先日もアズナブールの看板が出てましたし。ん?いや、シャルルですよ。シャアじゃないから。

毎日の様に、何となくこの劇場の前を通り過ぎてるんですけどね。改めて見返すとすごい歴史ですねぇ。で、それがまだまだこの先も続くんでしょうね。さて、今の時代にオランピアの舞台を踏んだ若手から、次の時代にはどんなビッグネームが登場するんでしょうか。

2011年11月28日月曜日

スタバだけじゃない。

世の中、いろんな人がいて、いろんな物をコレクションしておりますね。

いや、別にジョン・ファウルズの「コレクター」とか、エドワード・ゲイン(この人が「羊達の沈黙」のモデルでしたっけ?)とかの話をしようって言うんじゃありませんよ。

お土産にもなりそうな、そしてまた自分でコレクションしてもいい小物の話です。オペラ大通りにこんな店がありまして。


すみません、店名が読めないんですけど。デザイン凝り過ぎだろ。まぁ、店の商品とはマッチしてますが。多分これ、おっさんが知らないだけで、実は結構有名な店だと思うんですけど。

パリの街並のミニチュア。実際こんなミニチュアをコレクションしていて、「パリの街のミニチュアを買える店を教えてください」なんて訊いて来た日本の人もいましたし。


ここに限らず、オペラからルーブル界隈のお土産物屋さんで、こういうのを扱ってる所はいくつかありますけどね。ここはかなり種類が揃っているかと。
ミニチュアの他にも、ティーセットとか。


この「Paris,Je t'aime(Paris,I love youの意味ですね)」のティーセットだったら普通に使っても大丈夫でしょうが、この店にはもうちょっとクセがあるというか、他のインテリアとの相性をよく考えてから買った方がいいというか、やたらカラフルなというか、「不思議の国のアリス」の小道具に使えそうなというか、きゃりーぱみゅぱみゅさんが使ったら似合いそうなというか、ちょっと変わったポット、カップ、プレート、お皿の類が沢山あります。


大体この判読不能な店名のロゴといい、ピンクの枠で統一したショーウィンドウ、ショーケースといい、店内の商品はさぞや「ポップ」なんだろうと察しもつこうというものです。
でもその中に混じって、やっぱり定番のパリTシャツとかエッフェル塔とか、トゥール・ド・フランスグッズなんかもちゃんとあったりして。


うーん、やはりパリのお土産物屋さんに「Paris」Tシャツやエッフェル塔は必須か。このポップな店内にフツーのお土産物を並べる時、店員さんやお店のオーナーは結構違和感を覚えるんじゃないかと想像する訳ですが。

観光地のお土産物屋さんで売ってる様なありきたりの「Paris」Tシャツじゃつまんない、もっと変わった面白いパリ土産はないかな、なんて思ってる方は覗いてみたら如何でしょう。

因みにおっさんの家にこのカラフルな食器類は絶対に合いません。当たり前か。
最近はキャンプ用のアルマイト皿を愛用してるおっさんでした。それもまた寂しくないかい?

2011年11月27日日曜日

有名・無名の人々。

さて、今までこのブログにいろんな人達が登場しましたが。
王様、貴族、革命家、実業家、芸術家…

今日はモンマルトルを散歩していて見つけたこんな店。


一見何て事無いカフェです。テルトル広場の近く、観光客も多い所。日本人旅行者さん達も沢山いますよ。クソ高いミサンガを売りつけられたり、似顔絵描きの値段の高さにびっくりしたり、珍道中しながらも、この辺はやっぱり人気の観光スポットです。

で、ちょっとカフェで一休みする人は多いんですが、こんなプレートに目を留める人はあんまりいないんじゃないでしょうか。赤い日除けの陰、モン・スニ通りの表示プレートのすぐ下に、こんな物がありますよ。


このレストランで、1919年から1935年の間、偉大な芸術家シュザンヌ・ヴァラドンが息子のモーリス・ユトリロを連れてしばしば食事をした。

のだそうです。さて、シュザンヌ・ヴァラドンは「偉大な芸術家」でしょうかね?まぁ、そうなんですけど、日本での知名度はいまひとつじゃないですか?

以前、日本から見えた方が、「昔パリの画廊で絵を買った事がある」とおっしゃいまして。
「へぇ、どんな絵を買ったんですか?」
「えーと、何だっけ、誰だかのお母さんとか何とか…」

画家で、息子の話題が出る(「あの人のお母さんですよ」で通じる)と言えば、これはもうヴァラドン・ユトリロ母子が真っ先に思い浮かびます。

「あぁ、ユトリロのお母さんのヴァラドンじゃないですか?」
「あ、そうそう、それ。」

…ちょっと待て。10号(55x46cm)位の絵だと言ってたから…当時1000万円位してた筈だぞ?「何だか、誰かのお母さん」の絵に1000万円って…凄い金銭感覚だな。

ヴァラドンとユトリロ、母子で名字が違うのはユトリロが私生児だからですね。ユトリロを自分の子として認知してくれたのがミゲル・ユトリロさんだったからです。

画家としては、母子で画風は全く違いますけどね。ヴァラドンはモデルから画家を目指し、ロートレックやドガに認められデビューします。息子のユトリロはアル中の治療の一環として絵を描き始めたのだとか。

こういう有名人達はWIKIにでも行けば、或いはググればいくらでも調べられますけど、今度は本当に無名の人のお話。


これまた何て事無い店です。ユトリロ・ヴァラドンの店と同じ、モン・スニ通りにあります。
そして同じ様に、誰も気に留めもしないプレート。


1436年、サン・リュスティック通りとサン・ドニ通り(現モン・スニ通り)の北の角に、村で唯一の食料品屋であるジュアン・ドゥルセが住んでいた。

モンマルトルがパリの中に含まれる様になったのは1840年以降ですから、このプレートに記されているドゥルセさんの頃にはここはまだ郊外のモンマルトル村でした。その田舎(?)村で唯一の食料品店がここだったと。

この辺がフランスの凄い所というか。村の食料品店の事を、こういうプレートにして後世に伝える訳ですね。念の為フランス語WIKIも見てみましたけど、やっぱり載ってない。本当に「無名の一市民」だったんですね。

アメリカ式スクラップ&ビルドの日本では、こういうのは見ないと思いますが。増して村の食料品店ですよ。勿論石積み建築と違って木造建築ではそうそう古い建物は残ってないと言う事情もあるんでしょうが、この店だって別に15世紀の建物をそのまま使ってる訳じゃありません。建物そのものは最近のものですけど、記念のプレートはちゃんと受け継がれるんですよね。

他にもパリの街を歩いていると、こういうプレートがいくつもあって、有名な人のもありますけど、「この人…誰?」と言うのも沢山あります。まぁ、おっさんが不勉強で知らないだけなのも多いかとは思いますが。またはフランス人ならすぐ分かるけど外国人には難しい、なんてのもあるかも知れません。

ま、いろいろ歩いてみて、こういう発見があるのは楽しいものです。

ん?いや、いつかうちのアパートに「ここに日本人のおっさんが住んでいた」なんてプレートが出るとは間違っても思ってませんよ。

2011年11月26日土曜日

♪涙じゃ~ないのよ~♪

えらく古い歌ですねぇ。1955年か。まぁ工藤静香さんなんかも歌ってましたが。

子供の頃「カスバの女」という歌を聴いて、「なんでこの女の人は『地の果て』アルジェリアまで行ってしまったのだろう?」と不思議に思ってましたね。
というのも両親や祖父母が見てた懐メロ番組では大抵一番の歌詞しか歌われないからです。全部(三番まであります)の歌詞を読んで、やっと納得したのでした。

「カスバの女」エト邦枝

涙じゃないのよ 浮気な雨に
ちょっぴりこの頬 濡らしただけさ
ここは地の果てアルジェリア
どうせカスバの夜に咲く
酒場の女のうす情

歌ってあげましょ 私で良けりゃ
セーヌの黄昏 瞼の都
花はマロニエ シャンゼリゼ
赤い風車の踊り子の
今更帰らぬ身の上を

貴方も私も 買われた命
恋してみたとて 一夜の火花
明日はチュニスかモロッコか
泣いて手を振る後ろ影
外人部隊の白い服

つまりこの歌のストーリーを纏めると、元はパリの「赤い風車」の踊り子であったフランス人(あるいはフランスに来た外国人の可能性もありますが)の女性が身を持ち崩して?男に騙されて売られて?はたまた男を追って自らパリを飛び出して?流れ流れてアルジェリアに辿り着いた訳ですね。その頃はまだアルジェリアはフランスの植民地です。そしてカスバ(元々はオスマン帝国太守の城の事で、現在ではアルジェの旧市街地の事)での、パリからやって来た外人部隊の兵士と彼女との一夜の恋。

そういう事だったのか。まだアルジェリアがどこにあるのかも、フランスとアルジェリアの関係も知らなかった頃のおっさん(重ねて言いますが、その頃からおっさんだった訳じゃありませんよ)は、この歌の主人公が日本人女性だと思ってたから解釈に無理があったんですね。

今、パリに住んで、アルジェリア人の友人も何人もいますが、こうなるとは夢にも思ってませんでしたが。フランスとアルジェリアの事については10/18と6/10の記事を御覧頂きましょうか。

で、ここに出て来る「赤い風車」とは?フランス語で風車は「Moulin」赤は「Rouge」、そう、これですね。


1889年10月5日、「フランス王女のダンスホール」の跡に、オレールとジドラーは「ムーラン・ルージュ」を開いた。庭には猿が放し飼いにされ、横腹が動く巨大な木製の象がオーケストラの上を覆い、劇場の舞台ではムーア人の踊り子達が跳ね回っていた。ラ・グルーに率いられたチャ・ユ・カオ(女ピエロ)、ジャンヌ・アヴリル、そして特にカドリユ・レアリスト(アリス・ギーによる短編無声映画)等がムーラン・ルージュを大成功に導き、トゥールーズ・ロートレックの絵画とポスターによって永遠の物となった。1907年1月3日、パントマイム劇「エジプトの夢」は一大スキャンダルを引き起こした:単純な文字の並べ替えでイシム(Yssim)と名乗った彼女の恋人ミッシー(Missy)の横で、薄衣を纏ったコレットが主演を務めた。彼女の前夫、この作品の共同作者でもあったウィリーは、観客の罵声の中、舞台を後にしなければならなかった。

さて、ややこしい解説ですね、相変わらず。
通常「Blanche(ブランシュ)」と言えばフランス王女を意味します。従って、特定の誰という事ではないのですね。同じくフランス王太子の事は「Dauphine(ドーフィーヌ)」と言いますが。

モンマルトルの位置からして、本当に王女がいた時代に「王女のダンスホール」があったとは思えないので、これは単なる店の名前なんでしょうかね。その後にできたのが「ムーラン・ルージュ」。創立者はカタロニア人ジョセフ・オレールとシャルル・ジドラー。オランピア劇場のオーナーでもあり、競馬関係の元締め(?)でもあり、当時はまだ珍しかったジェットコースターを造ったりと、エンターティメント方面で活躍した人です。

ラ・グルーとは後の所謂「フレンチ・カンカン」の初期のダンサーですね。ロートレックも彼女の舞台のポスターを描いてます。ジャンヌ・アヴリルもまたロートレックのモデルで有名なカンカン・ダンサーですね。子供の頃虐待を受け、家を飛び出して放浪していたジャンヌを治療したのはフロイトの恩師、ジャン・マルタン・シャルコーでした。

コレットは作家で、「青い麦」や「クローディーヌ」のシリーズ等を書いた人ですが、パントマイムなんかも含め舞台でも活躍してました。彼女の「恋人」ミッシーというのはベルブーフ候爵…ではなくて「候爵夫人」の方でした。彼女の元夫ウィリーもバイ・セクシャルだったそうですが。複雑な関係だ。まぁ「性の解放」を叫んだ彼女らしいですが。

現在のムーラン・ルージュのダンサー団は「ドリス・ガールズ」といって、70人くらいのダンサーがいるんだそうですね。女性の平均身長が176cmとか。男性のダンサーはやっぱりゲイの人が多いとか。

昔は日本の団体ツアーなんていうと大抵ムーラン・ルージュのショーが組み込みで入ってたもんですがね。今はそうでもなくなりました。今は日本の方は団体より個人旅行者の方がずっと多いですからね。ムーラン・ルージュを見たい人も、そうでない人も、人それぞれ。

映画「アメリー」のヒット以降は、モンマルトルはクレーム・ブリュレのカフェ、「Cafe Deux Moulins」や食料品店「コリニョン」なんかの方が有名になった感がありますね。


これだっていい加減古いですけど、今でもカフェ「ドゥ・ムーラン」にクレーム・ブリュレを求めてやって来るファンも多いですよ。コリニョンの方は、「コリニョン」と書かれた看板はもう無くなってしまいましたが、店の佇まいは映画のまま。やっぱり「アメリー」関係の絵葉書やポスターなんか売ってたりして。

ムーラン・ルージュの向かって右の坂を登るとカフェ「ドゥ・ムーラン」がありますから、ファンの方、行ってみますか?

2011年11月25日金曜日

和。

パリの「とらや」さんに行って参りました。

子供達が小さい頃は、3月3日には桜餅、5月5日には柏餅を買いに行ってました。
店員さんから「daiさんって節句になるとお見えになりますよね」とか言われてました。

今回はお茶をしに寄っただけですが。


右から左へ書かれた暖簾が歴史を感じさせますね。
しかし入り口の上じゃなくて、壁に掛かってる暖簾ってのも結構シュールです。

「とらや」さんでお茶というのはおっさん個人にとってはなかなか機会が無いんですがね。今回は日本からのお客さんのお供ですから。いや、とらや行きはお客さんの御希望ですからね。
で、久々に磯辺巻きなど食した訳ですが。いやー、画像撮ってなかったよ、おい。動揺してたんじゃないかい?

その代わり、と言うのはおかしいですが、ちょっと気になるものがありまして、撮っておきました。これ。


んー、くるみ大福はパス。胡桃って凄いカロリーですしね。月餅と鰻丼がカロリーほぼ同じってどうよ?
で、カルヴァドス大好きなおっさんは当然カルヴァドス風味焼き林檎羊羹に興味を持つ訳ですねぇ、これが。こっちだって凄いカロリーには違い無かろうに、好きな物は好きさ。はは。実物はこちら。


タルト・タタンを和風にアレンジしたという感じでしょうか。羊羹も、林檎も、カルヴァドスも、全部好きですからね。これは今度個人的に試してみよう。今回はお客さんの前で個人的な買い物をするのは控えました。

カルヴァドスかぁ。映画「凱旋門」でシャルル・ボワイエ演じるラヴィックがシャンゼリゼのカフェ「ル・フーケッツ」でカルヴァドスを飲むんだよなぁ…
などと考えてたら、ふと「コナン」の台詞にあった
「『シャトー・ペトリュス』…?『ナイル殺人事件』でポワロが飲んだワインだぁ…」
なんてのを思い出してしまった。
しかし青山剛昌って人はどれだけ推理物が好きなんでしょうかね。コミックスのカバーについてる名探偵紹介コーナーなんか読んでるとほとほと感心します。

さて、今度ノルマンディー地方に行く事があったら地元のカルヴァドスでも仕入れて来ようかな。以前、ブランデーチョコレートケーキがあるんだから、と思ってカルヴァドスチョコレートケーキを焼いてみたけど、結構うまくいったしなぁ。

ま、「カルヴァドス風味焼き林檎羊羹」は先の楽しみにとっときましょう。

2011年11月24日木曜日

今度はパリ市か。

さて、今度はパリ市がこんな事を始めましたよ。


「パリを汚す人には罰金を科します。」
「パリの街には100メートルおきにゴミ箱があります。」

ピザ:8ユーロ50セント 空き箱を路上に捨てると:35ユーロ

そうか。パリのピザはそんなに高いのか。8ユーロ50セントと言えば1000円位。それなら「てんや」で500円の天丼を食べる方がいいなぁ。

という事ではなくて。

先日の地下鉄マナー向上キャンペーンもいささか唐突だなと思いましたけど、こっちも唐突ですねぇ。


同上

缶ジュース:1ユーロ20セント 空き缶を路上に捨てると:35ユーロ

しかし、何年か前にも同じようなキャンペーンがあって、見事に不発に終わった記憶があるんですが。人間、長年染み付いた習慣というのはなかなか抜けないものです。
ま、それでも悪習を改めるのは良い事ですし、最近のパリのゴミのポイ捨て事情は数年前よりかなり改善されたと思いますけど。


同上

「パリの街には400個の無料公衆トイレがあります」

ビール:2ユーロ80セント 立ちション:35ユーロ

実はこのシリーズの中ではこれが一番好きです、と言うよりは一番よくできてると思います。成程ね、ビールに関してはポイ捨てじゃなくて立ちションか。

しかし、それならパリ市の公衆トイレがしょっちゅう故障中で使えなかったりトラブったりしてるのを何とかして欲しいものですが。
そういえばパリの公衆トイレ事情の話を書いたのは4/9でしたか。

全然関係無いんですが、トイレに纏わるちょっと「心理学」及び「統計学」的なお話。

♪コンニチワ~ コンニチワ~ 世界の国から コンニチワ~ コンニチワ~ 桜の国へ♪

1970年の大阪万博。6420万人の人が訪れた大イベントでした。その前年、1969年にアポロ11号が持ち帰った「月の石」を見ようという人でアメリカ館は常に大行列でした。

この万博で、もうひとつ大行列だった物があります。そう、トイレです。

実はこの万博開催に当たって、予想来場者数、人間の平均的なトイレ・サイクル、会場で販売される飲み物の量、気候や湿度、ありとあらゆるデータをコンピューターで計算して、必要なトイレの数を割り出した筈だったのに、いざ蓋を開けてみたらいつもトイレは大行列。
何故?実はひとつだけ、インプットし忘れた物があったからだそうです。
インプットし忘れた要素とは?「連れション」でした。

「ちょっと待って、トイレに行ってくる」
「あ、じゃ俺も一応行っとこうかな」

と言うアレです。思い当たるフシがあるんじゃないでしょうか。
これを考えに入れるとなると、来場者がカップル?家族連れ?なら、算出した数の2倍、3倍、4倍のトイレが必要という事です。

たったこれだけの事で計算が大幅に違ってしまうんですね。
いかに高性能なコンピューターがあっても、人間がそれを使いこなせなければ意味がありません。

と書いたらまた別の話を思い出しました。高性能医療用コンピューターに、腰がだるい、吐き気がする、貧血気味等、病状のデータをインプットしたら「あなたは妊娠しています」と言う回答が出て来たという話。

「性別」という要素をインプットし忘れた為に、男性の患者に妊娠の診断が下ってしまったと。

最終的にはやっぱり「人」なんですね。

さて、肝心要の「パリジャン」「パリジェンヌ」達はこのキャンペーンをきっかけに、「変わる」事ができるのでしょうか?

さあ何年かかる事やら。

2011年11月23日水曜日

パリの中国。

今まで中華街については何度か書きましたが。パリの中国建築についても9/20に書きましたが。

今日はもうひとつの中国のお話。


何て事無い通りに見えますけど、これはもう一つの「パリの中国」Rue de la Chine(中国通り)です。


サン・ラザール駅の北側には「ヨーロッパ地区」といって、ロンドン通りとかローマ通りとか、ヨーロッパの町の名前をつけた通りが集中している地区がありますが、この辺は「アジア地区」(と一般的に呼ばれているかは存じませんが)です。

で、「中国通り」。1730年の地図にはこの通りが既に載っているそうですが、その頃はまだ中国通りではありませんでした。このあたりの通りにアジア系の国々の名前がつくようになったのは19世紀だそうですね。

19世紀。日本は開国の時代です。日本が正式に「明治」の元号を掲げて新たな時代に第一歩を踏み出したのは1868ですが、それ以前から日本と外国の結び付きは始まっていました。
坂本竜馬が海援隊を率いて活躍したのが1865年から68年。
黒船来航は1853年。

1851年にはロンドンで第一回万博が開かれています。

1861年のロンドン万博開幕の頃に「文久遣欧使節団」がロンドンを訪れており、開幕式にも出席しています。この中に福沢諭吉さんがいた訳です。
使節団そのものは別に万博の為に渡欧した訳ではなく、開国に伴う各港の開港時期の交渉の為でしたが。
この万博には日本の展示コーナーがありました。
駐日公使オールコック氏が私的にコレクションした日本の文物を展示したものですね。ここに初めて日本の美術品が正式にヨーロッパに紹介された訳ですね。

そして1867年のパリ万博。日本が初めて国として正式に参加した万博です。
フランス皇帝ナポレオン三世の招聘を受け、日本「幕府」は幕末の混乱期にも拘らず、多数の展示品を出品しています。
この万博には薩摩藩と佐賀藩が幕府とは別に独自に出展してますが、その後西南戦争で九州勢がどうなったかは御存知の通り。

1873年のウィーン万博。日本「政府」が初参加した万博です。この頃には明治政府は外国文化・技術の吸収、日本製品の輸出等にも力を入れており、国を挙げての参加となりました。

万博等を通してヨーロッパで日本文化が知られる様になって来た、というよりも、日本文化はそれ以前からヨーロッパにブームを起こしており、その結果、万博開催にあたって日本に出展要請が来る様になった訳ですが。

この「日本趣味」は印象派以降の画家にも大きな影響を与えていますし、その前の世代、たとえばマネが描いた「エミール・ゾラの肖像」の背景に日本の「花鳥図屏風」みたいな物が描き込まれてたりします。

またもや話が逸れましたが、日本より一足も二足も先にヨーロッパに紹介された中国文化は17世紀後半に大流行してます。ルイ十五世下で流行したロココ芸術の中にも中国文化の影響が見て取れますね。


中国趣味って訳じゃないんでしょうが、ちょっと変わった装飾の建物。「中国通り」の入り口にあります。


昔、このあたりに実際に中国建築の建物があったそうで、それに因んで「中国通り」なんだそうです。

同じ理由によるのでしょうか、中国通りからそう遠くない所にある「北京小路」です。


この「中国通り」から「北京小路」へ行く途中の道に結構ガラの悪そうな兄ちゃん達が屯しててちょっと不気味でしたけど。

ま、おっさんも人から見れば得体の知れない変な奴かも知れませんしね。
「人の振り見て我が振り直せ」か。

今更遅いって気がしなくもありませんが。

2011年11月22日火曜日

最近は密かにトマソン物件も探してるんですが。

なかなかありませんね。まぁ気長に探す事としましょう。

本日はVOWネタ。結構久々じゃないか?

さてシャンゼリゼにて。シャンゼリゼが凱旋門に突き当たったすぐ右に巨大なキャンディがあります。


これを見て、ここはキャンディのメーカーの会社か何かですか?と聞いて来た人がいましたが。いえいえ、ここはカタールの大使館です。何でカタールの大使館にキャンディのオブジェが?さぁ?このオブジェの作者ローランス・ヤンケルさんの作品をこういう感じで展示するのをカタール大使館が受け入れたからじゃないですか?カタールの国旗と同じ模様のキャンディですし。

このアーチストさんは「オペラ・ギャラリー」という画廊さんで扱っている様ですね。作品の仕様を紹介したプレートにサイトのアドレスが出てます。
しかし5メートルもあるのか。


こちらはオペラ座の近く。ワンちゃん連れの人が多いパリの街ですから、カフェのオープンテラスなんかはワンちゃんもご主人様と一緒に一休みしたりしてます。中にはワンちゃん用にちゃんと水のボウルを出してくれる店なんかもあったりして。
でもさすがに食料品店なんかにはワンちゃん連れで入るのは難しいですね。という訳で、近くの鉄柵とか雨樋の排水パイプに繋がれて、ご主人様の買い物が終わるのを待ってるワンちゃんもよく見かけます。
この店はワンちゃんの首輪の紐(?)を留めておく為のDOG PARKをちゃんと設置してありますね。
しかしワンちゃんを店の前に繋いで置く事を「Park」というんだろうか?


こちらは仕事で北フランスのリールの町に行った時のもの。リールの市立(?)体育館のゴミ箱に何故かマリオのスプレーペイントが。日本でもハロウィーンの時にマリオが大増殖した所があったそうですから、ひょっとしてこれからはインベーダーちゃんだけじゃなく、マリオもあちこちに出現する様になるんでしょうかね。


これは…何のギャラリーなんだかも、場所も覚えてないんですが、「コーガン・ギャラリー」です。「コウガン」とは表記しない方が良いですね。まして漢字に当て嵌めて考えない方が良いです。
映画「モンパルナスの灯」を御覧になった方は、モディリアニが死ぬや否や、モディリアニと同棲していたジャンヌには彼の死を知らせずに、アトリエに有った作品を、値上がりを期待して片っ端から買い取ってゆく画商モレルをご記憶でしょうかね。
こっちは「厚顔な画商」ってとこですか。


さてこちらはマドレーヌ寺院とコンコルド広場の間、ロワイヤル通り。高級レストラン「マキシム・ド・パリ」の子会社「ミニム」です。成程。「マキシ」の子会社が「ミニ」とは、いやぁ、安易なネーミングというべきか。
日本で言うならニューオータニの子会社のニューコタニとか、オークラの子会社のショークラとか、そんな感じですかね。日本でなら、駄洒落として思いついても実際にそう名づけたりはしませんよね。このギャグを実際にやっちゃう所が凄い。

そんな訳で、本日はここまで。またVOWネタがたまったら紹介しますね。

2011年11月21日月曜日

フランスとアメリカ。

さて、フランスとアメリカとの浅からぬ関係については何度も書いて来た通りですが、ここ「ショセ・ダンタン・ラファイエット」駅にもその結晶(?)というか証がありますよ。


アメリカのラ・ファイエット 1989年
ヒルトン・マック・カニコのフレスコ画

このカマボコ型天井を飾る作品は、フランス革命200周年の際に創られた。ギャラリー・ラファイエットとパリ地下鉄・バス公団によってヒルトン・マック・カニコに依頼されたこの作品は、二つの世界に共通の英雄:ラ・ファイエットへの賛美を表している。

470平方メートルに亘るカマボコ型天井に、真実の歴史が展開する。旧大陸とフランスを表す、ある程度の年齢の男が、アメリカまたは新世界を具現化する新生児の方へと視線を投げている。


ラ・ファイエットは新世界(子供)を指で指し示している。


子供(アメリカ)はラファイエットと兵士達に感嘆の眼差しを向けている。


若く美しい女性(自由)は彼女が差し伸べる焔の向こう、ラ・ファイエットとワシントンの間の協力の約束を見守っている。


ラ・ファイエットは「自由」の方を見ている。


中央の円形の上に広がる空には五芒星が永遠のアメリカと今日のヨーロッパを象徴している。


はてさて…まぁいいんですけどね…

フランスは確かにアメリカ独立戦争に義勇軍を送ってますけどね。別にここに書かれてる様な自由や博愛だけで(それが全く無かったとは言いませんが)独立戦争に参戦した訳ではありませんよね。
事有るごとに対立していたイギリスを牽制する為とか、フランスがアメリカに持っていた植民地防衛、あわよくば拡大、もし植民地を手離さなければならないとしても、その利権の最大限の確保等々、かなり生臭い理由もあっての事だった訳ですが。

ま、野暮は事は言いっこなしって事で。フランス革命200周年を記念する建造物は新凱旋門、オペラ・バスティーユなど色々ありますが、アメリカ独立戦争の英雄、フランス革命の指導者ラ・ファイエット将軍の名を冠した駅に、アメリカとフランスの友情の歴史。

しかし注文主パリ市ってのは分かりますけどそこにギャラリー・ラファイエット・デパートも名を連ねますか。やっぱり同じラ・ファイエットの名を受け継ぐ者としては手を貸さざるを得なかったとか?
それとも宣伝経費?浮世の柵ってヤツですかい?

おいおい、野暮は言いっこ無しと書いた傍から。