さて大学村の続きの続き。
昨日日本館を紹介しなかったのは別に紹介したかったからです。
木綿王・薩摩治兵衛と東洋のロックフェラー・薩摩治郎八によって建てられた日本館です。
薩摩治兵衛は、伊藤忠商事や丸紅の元祖、伊藤忠兵衛と同じ近江商人で、伊藤忠兵衛は麻布の行商から始まりましたが、治兵衛は、丁稚奉公の後、横浜に開いた木綿商「丸丁字」から商人としてのキャリアを踏み出します。
治兵衛は一代で巨万の富を築き、その孫・治郎八は大正9年オックスフォードに留学し、更にパリにやって来ました。
日本からの月々の仕送りが、現在の通貨価値に換算すると三千万円位だったというから、どれだけ金持ちだったかわかろうというものです。
この国際大学都市が作られた時、フランス政府は各国に留学生会館を建設する様に呼びかけましたが、日本政府は「資金難」によりこれに応えませんでした。元老西園寺公望の要請により、薩摩家の全額出資による日本館が完成します。
日本館には違いありませんが、この薩摩治兵衛・治郎八の名前を取って「薩摩館」ともいわれていて、それ故に薩摩の国(鹿児島)の人が建てたと誤解される事もあるそうです。
1929年5月10日、日本館はフランス大統領ガストン・ドゥメルグ、日本の安達大使、パリ大学のシャルレッティ学長の臨席によりオープンしました。
そういえばこの大学村の近くにアルスタジアムはセバスチャン・シャルレッティ・スタジアムですねぇ。
そしてこの日本館を特別に紹介したかった理由がこれ。
藤田嗣治の作品「馬」と「西洋人の日本への到着」ですね。
「馬」は後ろの入り口ホールの反射が、「西洋人」は手前に置いてあるピアノが邪魔ですが。
藤田をはじめ、当時パリにいた日本人芸術家は大抵治郎八の援助を受けてますが、佐伯祐三は治郎八の眼鏡に適わなかったらしく、援助を受けられなかったそうです。まぁ、金持ちってのは我儘なもんですがね。
藤田という人は、絵の腕もさる事ながら、「作戦勝ち」で名を残したといっても良いですね。藤田の画風は、西洋絵画、特に油絵の技法とは全く違う、日本画のものですね。日本画をヨーロッパで主張し、またそれを可能ならしめる独特のキャンバス生地を作り上げた事が藤田の成功の鍵でした。日本の墨絵は油絵のキャンバスには使えませんが、面相筆で、墨で絵を描く事ができる独自のキャンバス(ただしその独特の製法故に藤田のキャンバスは脆く、保存状態が良くない)を開発し、更にその「乳白色」の肌の女性像が人気を呼び、藤田はパリでの名声を確立します。
単に日本画家として、日本で、日本画を描いていたら、おそらく藤田は歴史には残らなかったんじゃないか?日本画そのものの藤田の画力は、当時の日本画壇の中で見るなら、超一流って訳でもなかったみたいです。それでも、その足りない所を頭でカバーしたという事ですね。
それはさて置き、この治郎八と藤田の繋がりを表すかの様に、二つの作品が日本館を飾っていて、月から金曜日の08:30-12:30、14:00-19:00に見学できます。料金2ユーロ。でも以前行った時は夏休みで誰もいなくて見学できなかったんですけど…
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