パリに限った話ではありませんが、例えばどこかに旅行した時、どうしても風景や建造物なんかに目が行ってしまって、あんまり足元を良く見る事って無いんじゃないでしょうかね。
改めて見てみると、足元ってのも結構面白い物ですよ。
例えばコンコルド広場。やっぱり広々とした空間や聳え立つオベリスク、シャンゼリゼ、エッフェル塔なんかに気をとられますけど、そのオベリスクのすぐ下の舗道にはこんな物があります。
1763年に造られたこの広場は、元はルイ十五世広場と呼ばれていた。
1792年11月から1795年5月までは革命広場と名づけられ、公開処刑の主な場所であり、その中には1793年1月21日のルイ十六世、1793年10月16日のマリー・アントワネットの処刑も含まれている。
まぁ、実際にギロチンが置かれていたのはこのプレートの場所ではなく、コンコルド広場とチュイルリー公園の境目の所とか広場の北西角のところだったらしいですが。
これもまた、やっぱり見上げちゃいますよね。或いは見事な彫刻群に目を奪われるか。
でもやっぱり敢えて下を向いてみましょう。
Point Zero De Route Des France 「フランスの道のゼロ・ポイント」です。
日本橋の「日本国道路元標」みたいな物ですね。「日本国道路元標」の前身である「東京市道路元標」の設置が1911年。パリの「ポイント・ゼロ」は設置の話自体は1912年からあったそうですが、1924年にやっと実現しました。
その後地下駐車場工事のため1966年に一旦取りはずされ、また地下の遺跡(クリプト「地下墓地」見学できます)の発掘なんかもあり1972年にやっと復活したそうです。
こうなると見上げざるを得ませんね。
でも何でモン・サン・ミッシェルに日の丸が?これは2008年、モン・サン・ミッシェルと姉妹都市の廿日市市の方が表敬訪問に来てた時の写真だからです。
そして、モン・サン・ミッシェル見学コースの中の「西のテラス」。
テラスから眺めるこんな景色も当然眺めますが、ここでもやっぱり足元。
ここに限らず、他にも幾つかありますけど、記号や番号を彫り込んだ石。これはこの石を削って形を整えた職人さん達が歩合を貰う為に彫り込んだ「サイン」なんだそうです。
すみません、いきなりイタリアに飛びました。フィレンツェの市庁舎前にあるサヴォナローラの記念碑。碑文は当然イタリア語ですので読めません。
サヴォナローラとは一体何者だったんでしょうかね。フェラーラに生まれ、ドメニコ派の修道士となり、フィレンツェの町にやって来てからはその熱い説教で民衆の人気を集め、やがて実質的にフィレンツェの町の支配者となり、「豪華王」ロレンツォ・デ・メディチに対してもローマ法王に対しても一歩も引かず自らの「宗教改革」を推し進めた男。
結局サヴォナローラはフランチェスコ派からの告発によって「異端者」として火炙りの刑に処された訳ですが、彼がフィレンツェを支配していた間は町の人々は極端な禁欲・質素・敬虔の生活を強いられたので、最初は彼を支持し、彼の説教に感動した人々の心も段々離れてしまいます。まぁ日本で言うなら「元の濁りの田沼恋しき」てなもんでしょうか。
そしてまたその全盛期には「虚飾の焼却」を行い、「現世の虚飾の品々」(その中には数多くの優れた芸術作品が含まれていた)が焼き払われてしまいました。ヴァザーリの「芸術家列伝」の中にもこの話は伝えられています。
以前パリのリュクサンブール美術館で「ロレンツォ豪華王からサヴォナローラへ」と題したボッティチェルリ展が開かれてたんですが、是非行きたかったんだけど…時間が無くて行けなかったんだよなぁ…
やっぱり、ルネッサンス時代って、面白いですねぇ。
すみません。個人的趣味丸出しで、話に筋が通ってません。
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