2011年9月30日金曜日

母は強し?父の意地?住宅難?

さて、何か久し振りの様な気がしますねぇ、ペール・スターク。


コロンヌ通りは革命時代の建築の数少ない例である。1792年にヴェルヌイユ館を購入した投資家グループは、建築家ニコラ・ヴェスティエによって古代風に考案されたこの通りを、1793から1795年にかけて、建築家ジョセフ・ベナールと仲介人のピエール・フィッシェによって造らせた。元々はフェイドー劇場の入り口であり、フィーユ・サン・トマ通りとフェイドー通りを繋ぐ私道であったこの道は、しかし夜11時から翌朝5時までは閉鎖されていた。長さ90メートルのこの通りは、1826年のブルス通りや1864年の12月10日通り(現9月4日通り)の開通により断ち切られ、細分されていった。コロンヌ通りは疑い無くリヴォリ通りの作者達に影響を与えている。

そのリヴォリ通りは第二帝政時代、オスマン男爵の指揮の下に造られてる訳です。
確かにこの通りのデザインを参考にした感じの、アーチがずらりと並ぶアーケード建築ですね。
「本家」コロンヌ通りはこんな感じ。


コロンヌとは柱の事です。ペール・スタークの表記を見ても判る様に複数形になってますから、「柱通り」というよりは「列柱通り」とでも訳した方がいいんでしょうね。

ところで、ここに限らず、鳩のフン害に悩むパリの街のあちこちに、鳩除け(針金を植え込んで鳩がとまれない様にする)があるんですが。このコロンヌ通りにもありまして、


こんな感じで鳩が居座れない様にする…筈なんですが、事もあろうに、その鳩除けに巣を作っちゃった「剛の者」が。


どういう事なんでしょうね。パリの街の中では、鳥さん達が安心して子育てできる所はどんどん減ってるんでしょうから、こんな所にも住み着かざるを得ないんでしょうかね。

鳥さん達の世界も結構世知辛かったりして。

2011年9月29日木曜日

話?噺?咄?

時々ブログのアクセス解析をする訳ですが、結構いろんなキーワードでここに辿り着く人がいるんだなぁ、などと思いつつ。
「Sous les Paves,la plage!」とか、「公衆トイレ」とか、「フランス=鶏」とか、「首さすまた」とか。

で、こういうキーワードで実際ググってみたらどんな感じで出て来るのかやってみたりしてたんですが。「お山は火事でございましょう」などと試しにググってみたら…

えぇっ!?「仏蘭西薀蓄堂」一択!?

どういう事だ?「阿弥陀池」って有名なネタだし、結構どこにでも引用されてそうな台詞だと思ってたんだけど、他のブログにしろサイトにしろどこにも書いてないんですか?

こりゃ不思議。って事は他のネタの有名な台詞はどうなんだろうか。早速やってみましたよ。

「秋刀魚は目黒に限る」(目黒の秋刀魚)…さすがにこれは出てきましたね。
「幽霊だけに 足は出しません」(竃幽霊)…これもすぐに出ました。
「今度はお茶が怖い」(饅頭怖い)…そりゃ出るわな。
「角が暗いから提灯を借りに来た」(道灌)…これも出る。
「お袋が首を?あぁ、家にも帰れねぇ」(ろくろっ首)…出るなぁ。
「アカンベーをしてやったんだ」(蒟蒻問答)…子供の頃から好きな噺。出た。
「壁から釘」(粗忽の釘)…Yahoo知恵袋に意味を尋ねてるページでしたが、まあ出た。
「うどん屋、お前も風邪ひいてんのか?」(風邪饂飩)…これ好きだわ…出るし。
「半分は垢でございます」(半分垢)…出たけど…汚い題名&下げだな…
「お前さんも帰っておくれ」(五人廻し)…廓話なんだけど…出たよ。
「へへへ…もう半分」(もう半分)…怪談もちゃんと出るし。
「消えると死ぬぞ」(死神)…これも怪談。出た。
「飯を食うのが『恐惶謹言』なら、酒を呑むのは『依って件の如し』」(たらちね)長い…けど出た。

取りあえず思いつく所をざっとググってみても、ちゃんと(まぁ一応の物も含め)出ますねぇ。

「そこは私の寝床なんです」(寝床)…最初はペットの犬だか猫だかにベッドを占領されたというブログ記事ばっかりでしたが、「落語」と追加して検索したらやっぱり出た。
成程、その手があったか。改めて「落語 お山は火事でございましょう」でググるとやっと出た。

しかし、この噺、「阿弥陀ヶ池」と「阿弥陀が行けと」を引っ掛けた下げよりも、春、暖かくなって、「お山は雪でしょう」という馬鹿の一つ覚えの挨拶が言えなくなって、苦し紛れに「お山は火事でしょう」という、このくだりの方が個人的には面白いんですが。そういうのは少数派なんだろうか。

「壁から釘」や「消えると死ぬぞ」だって下げの言葉じゃないのにちゃんと出るんだけど。

って、夜の夜中に何やってんだか。

2011年9月28日水曜日

足元の歴史。

パリに限った話ではありませんが、例えばどこかに旅行した時、どうしても風景や建造物なんかに目が行ってしまって、あんまり足元を良く見る事って無いんじゃないでしょうかね。
改めて見てみると、足元ってのも結構面白い物ですよ。


例えばコンコルド広場。やっぱり広々とした空間や聳え立つオベリスク、シャンゼリゼ、エッフェル塔なんかに気をとられますけど、そのオベリスクのすぐ下の舗道にはこんな物があります。


1763年に造られたこの広場は、元はルイ十五世広場と呼ばれていた。
1792年11月から1795年5月までは革命広場と名づけられ、公開処刑の主な場所であり、その中には1793年1月21日のルイ十六世、1793年10月16日のマリー・アントワネットの処刑も含まれている。

まぁ、実際にギロチンが置かれていたのはこのプレートの場所ではなく、コンコルド広場とチュイルリー公園の境目の所とか広場の北西角のところだったらしいですが。


これもまた、やっぱり見上げちゃいますよね。或いは見事な彫刻群に目を奪われるか。
でもやっぱり敢えて下を向いてみましょう。


Point Zero De Route Des France 「フランスの道のゼロ・ポイント」です。
日本橋の「日本国道路元標」みたいな物ですね。「日本国道路元標」の前身である「東京市道路元標」の設置が1911年。パリの「ポイント・ゼロ」は設置の話自体は1912年からあったそうですが、1924年にやっと実現しました。
その後地下駐車場工事のため1966年に一旦取りはずされ、また地下の遺跡(クリプト「地下墓地」見学できます)の発掘なんかもあり1972年にやっと復活したそうです。


こうなると見上げざるを得ませんね。
でも何でモン・サン・ミッシェルに日の丸が?これは2008年、モン・サン・ミッシェルと姉妹都市の廿日市市の方が表敬訪問に来てた時の写真だからです。
そして、モン・サン・ミッシェル見学コースの中の「西のテラス」。


テラスから眺めるこんな景色も当然眺めますが、ここでもやっぱり足元。


ここに限らず、他にも幾つかありますけど、記号や番号を彫り込んだ石。これはこの石を削って形を整えた職人さん達が歩合を貰う為に彫り込んだ「サイン」なんだそうです。


すみません、いきなりイタリアに飛びました。フィレンツェの市庁舎前にあるサヴォナローラの記念碑。碑文は当然イタリア語ですので読めません。

サヴォナローラとは一体何者だったんでしょうかね。フェラーラに生まれ、ドメニコ派の修道士となり、フィレンツェの町にやって来てからはその熱い説教で民衆の人気を集め、やがて実質的にフィレンツェの町の支配者となり、「豪華王」ロレンツォ・デ・メディチに対してもローマ法王に対しても一歩も引かず自らの「宗教改革」を推し進めた男。
結局サヴォナローラはフランチェスコ派からの告発によって「異端者」として火炙りの刑に処された訳ですが、彼がフィレンツェを支配していた間は町の人々は極端な禁欲・質素・敬虔の生活を強いられたので、最初は彼を支持し、彼の説教に感動した人々の心も段々離れてしまいます。まぁ日本で言うなら「元の濁りの田沼恋しき」てなもんでしょうか。

そしてまたその全盛期には「虚飾の焼却」を行い、「現世の虚飾の品々」(その中には数多くの優れた芸術作品が含まれていた)が焼き払われてしまいました。ヴァザーリの「芸術家列伝」の中にもこの話は伝えられています。

以前パリのリュクサンブール美術館で「ロレンツォ豪華王からサヴォナローラへ」と題したボッティチェルリ展が開かれてたんですが、是非行きたかったんだけど…時間が無くて行けなかったんだよなぁ…

やっぱり、ルネッサンス時代って、面白いですねぇ。
すみません。個人的趣味丸出しで、話に筋が通ってません。

2011年9月27日火曜日

モネの時代から。

本日はサン・ラザール駅。モネが描いたサン・ラザール駅の絵がオルセー美術館にありますね。勿論現在の駅はモネの時代の駅と同じではありません。モネが描いた蒸気機関車はもうありませんし、地下鉄14番線の開通に伴って地下が大改造されました。

駅の裏(北)側から。


でも駅の佇まいそのものは全然変わってないと言ってもいいでしょう。モネが、そして印象派の先駆者の一人であるマネが描いた、そのままの風景が残っています。1837年落成という、パリの駅の中ではもっとも古い駅ですが、それ故に老朽化もひどく、現在大工事中です。


駅の左手前(南西)側から。ガラスのドームみたいなのが地下鉄14番線の入り口です。全自動コンピューター制御の最新の地下鉄を意識した斬新なデザインというべきか。

この駅は駅の真正面にホテルが建ってるんで、正面全景の写真が撮れないんですよね。今度は右手前(南東)側から。


この、時計が一杯重なってるオブジェはアルマンという人の作品。駅前に飾るオブジェですからね。列車の時間を気にする旅人に因んだ時計のオブジェ。


駅の西側には、旅行カバンを積み上げたオブジェが対になって飾られてますが、これは現在工事で覆い隠されてて外からは全然見えません。


で、その駅前にあるのがホテル「コンコルド・オペラ・パリ」です。


1889年、万博人気を当て込んで造られたホテルですね。という事はその一年後に造られたオルセー駅と同じ経緯です。古き良き時代の雰囲気を伝える当時の絵葉書。


そしてこれが現在のロビー。これまた全然変わってませんねぇ。


ホテルのレストランに飾られた当時のワイン。昔の名前「グランドホテル・ド・テルミニュス」のラベルが貼られています。


サン・ラザール駅はフランス西部方面の列車が発着する所で、TGV(フランスの新幹線。Train a Grande Vitesse=大きなスピードの列車。なんだかアフリカかオーストラリアのジャングルの奥に住んでる部族がつけそうな名前ですね)の発着が無いので、どちらかというと近郊線、通勤線が主ですが、ジャンヌ・ダルク終焉の地ルーアン、第二次世界大戦ノルマンディー上陸作戦の激戦地カン、「雨傘」のシェルブール、モネが「印象・日の出」で描いた港がある、世界遺産の町ル・アーブル、西海岸の有名リゾート地ドーヴィルやトゥルーヴィルなんかへの列車も出てます。

そして海沿いの地方からの列車が着く所、魚介類のレストラン有り、という訳で、1896年創業のこんなレストラン。


先日、日本から見えたお客様のお供で久々にここで食事しました。ってか、個人的にはここでそうしょっちゅう食事できる様な値段じゃないので…

時々仕事の合間にサボってお茶する時なんかは、勿論フランス風のカフェも使いますけど、こんな所も使います。


ん?ここはドイツかオランダか?と思う様な建物ですね。何でパリの真ん中にこんな物が?先日の中国建築みたいに何か由来があるんでしょうかね?サン・ラザール駅前のマック(フランスと関西では「マクド」)はこんな建物に入ってます。

しかしこんな事書いちゃっていいんだろうか。
ツイッターでカンニングや飲酒運転した事を呟いて炎上する人もいるというのに、「サボってお茶する」など。

2011年9月26日月曜日

ニューウェーブですな。

最近パリでこういうのを見かけます。


Quatre Septembre通りの、地下鉄の同じ名前の駅から出たすぐの所で。
Quatre Septembre(9月4日)とは1870年9月4日、第三共和制が発効した日を記念した名前ですね。皇帝ナポレオン三世が普仏戦争で捕虜になり、トロッシュ将軍による臨時国防政府ができました。

Post-it(付箋)を窓ガラスに貼り付けて作ったインベーダー達。普通は外壁にタイル(?)みたいなのを貼り付けてモザイク風に作りますが、本来ならこれは違法です。
室内から窓の内側に付箋を貼るのなら、これは自分の勝手ですからね。この「部屋ベーダー」ちゃんたちも秘かに増殖してる様です。


これはパリの周りを取り囲む様にして走る環状道路から。
走ってるバスの中からなのでよく見えませんけど、右端のダース・ベーダーなんか大作ですねぇ。


これまたQuatre-Sptembre通りから少し入った所、Louis Le Grand(ルイ・ル・グラン)通りとの交差点。
Louis le Grandとは「大ルイ」、つまり偉大なるルイ、ルイ14世の事ですね。他にも「聖王」ルイ9世の孫、ブルボン家の元祖ブルボン公ルイやハンガリーのルイ一世(ルイはフランス読み、ハンガリーではラヨッシュ)もそう呼ばれてますが。

「アメリカ政府は宇宙人の存在を隠している」
「宇宙人はもう既に、人間になりすまして人間社会に紛れ込んでいる」

と主張する人達がいて、今の所、こういう事を言うと変な目で見られたりしますけど、ひょっとして、実は…?

2011年9月25日日曜日

パリの日本。

さて大学村の続きの続き。
昨日日本館を紹介しなかったのは別に紹介したかったからです。

木綿王・薩摩治兵衛と東洋のロックフェラー・薩摩治郎八によって建てられた日本館です。


薩摩治兵衛は、伊藤忠商事や丸紅の元祖、伊藤忠兵衛と同じ近江商人で、伊藤忠兵衛は麻布の行商から始まりましたが、治兵衛は、丁稚奉公の後、横浜に開いた木綿商「丸丁字」から商人としてのキャリアを踏み出します。
治兵衛は一代で巨万の富を築き、その孫・治郎八は大正9年オックスフォードに留学し、更にパリにやって来ました。

日本からの月々の仕送りが、現在の通貨価値に換算すると三千万円位だったというから、どれだけ金持ちだったかわかろうというものです。

この国際大学都市が作られた時、フランス政府は各国に留学生会館を建設する様に呼びかけましたが、日本政府は「資金難」によりこれに応えませんでした。元老西園寺公望の要請により、薩摩家の全額出資による日本館が完成します。
日本館には違いありませんが、この薩摩治兵衛・治郎八の名前を取って「薩摩館」ともいわれていて、それ故に薩摩の国(鹿児島)の人が建てたと誤解される事もあるそうです。


1929年5月10日、日本館はフランス大統領ガストン・ドゥメルグ、日本の安達大使、パリ大学のシャルレッティ学長の臨席によりオープンしました。

そういえばこの大学村の近くにアルスタジアムはセバスチャン・シャルレッティ・スタジアムですねぇ。

そしてこの日本館を特別に紹介したかった理由がこれ。


藤田嗣治の作品「馬」と「西洋人の日本への到着」ですね。
「馬」は後ろの入り口ホールの反射が、「西洋人」は手前に置いてあるピアノが邪魔ですが。

藤田をはじめ、当時パリにいた日本人芸術家は大抵治郎八の援助を受けてますが、佐伯祐三は治郎八の眼鏡に適わなかったらしく、援助を受けられなかったそうです。まぁ、金持ちってのは我儘なもんですがね。

藤田という人は、絵の腕もさる事ながら、「作戦勝ち」で名を残したといっても良いですね。藤田の画風は、西洋絵画、特に油絵の技法とは全く違う、日本画のものですね。日本画をヨーロッパで主張し、またそれを可能ならしめる独特のキャンバス生地を作り上げた事が藤田の成功の鍵でした。日本の墨絵は油絵のキャンバスには使えませんが、面相筆で、墨で絵を描く事ができる独自のキャンバス(ただしその独特の製法故に藤田のキャンバスは脆く、保存状態が良くない)を開発し、更にその「乳白色」の肌の女性像が人気を呼び、藤田はパリでの名声を確立します。

単に日本画家として、日本で、日本画を描いていたら、おそらく藤田は歴史には残らなかったんじゃないか?日本画そのものの藤田の画力は、当時の日本画壇の中で見るなら、超一流って訳でもなかったみたいです。それでも、その足りない所を頭でカバーしたという事ですね。

それはさて置き、この治郎八と藤田の繋がりを表すかの様に、二つの作品が日本館を飾っていて、月から金曜日の08:30-12:30、14:00-19:00に見学できます。料金2ユーロ。でも以前行った時は夏休みで誰もいなくて見学できなかったんですけど…

2011年9月24日土曜日

留学生村の建物。

さて、昨日の続き。大学村の建物達。40幾つも紹介できないので、一部だけ。

フランス地方館。パリの人はいいけれど、フランスの地方から出て来た学生さんも多いですからね。


モナコはフランスとは別に寮があります。まぁ、別の国っちゃ別の国ですけど。


イギリスはやっぱりイギリスらしい厳めしい建物ですね。例えばパリとロンドンの町並みを比べると、何だかロンドンの方が暗い様な気がするんですけど。


ドイツ館も厳めしいって言えば厳めしいですけど、イギリス館と違って堅苦しくないと言うか。


東南アジア館。東南アジアの一つ一つの国が寮を持ってるわけではないのですね。所で、この東南アジア館の中で、お互い仲の悪い国の人が鉢合わせたりすることもあるんじゃないでしょうかね。例えば一時期のベトナムとカンボジアとか。


だからって訳じゃないでしょうが、東南アジアの国の中では独立した寮を持ってるのはカンボジア位ですか。


アルメニア館もギリシャ館もそれぞれの国の雰囲気が出てます。ギリシャ館には「ヘレニズム館」なんて書いてありますが。


国の雰囲気が出てるといえばやっぱりこれでしょうね。メキシコ館。


さて、ブラジル館とスイス館は日本でもお馴染みのル・コルビュジェさんの作品ですね。(ブラジル館はルチオ・コスタとの共同設計)


日本から建築家さんのグループが視察に来て、ル・コルビュジェの建築物巡りをする時なんかはサヴォワ亭やコルビュジェ財団と並んで、ここも定番のポイントです。スイス館の無機質な感じとかブラジル館の窓枠やベランダの色なんか「いかにも」って感じです。

でもコルビュジェさんってフランスの建築家さん達からはあんまり評判良くないですね。結構アンチの人も多い様で、
「ル・コルビュジェ?あぁ、あれはHLMの建築家さ」
なんていう人もいます。
HLMというのは家賃を抑えて、低収入の人でも借りられるようにした公営住宅ですね。所によって違いますけど、結構安普請の所が多いとか。
Habitation a Loyer Modere(低家賃住宅)の略です。

各国の寮の他に、郵便局「大学村支局」があったり、スポーツ施設なんかがあるのはわかりますけど、これは何故?農業省。


謎だ…

で、なんで日本館が出て来ないんだというご指摘はご尤もですが、故あって、これまた「続く」。

2011年9月23日金曜日

留学生村。

さて、本日はパリ南部のCite internationale Univercitaire de Parisを散歩。

日本語では「国際大学都市」と訳されてますね。フランスで学ぶ学生さん達の為の学生寮・学生会館が集まっている所です。東京ドーム七個分の敷地があるとか。
1920年、当時の教育相アンドレ・オノラさんが音頭を取って造られたそうですね。この人。


学生だけでなく研究者や教員、芸術家なんかも利用できるそうです。寮費も安く、電気・水道・無線LAN全込み。敷地のすぐ目の前が駅。


入り口を入ると、まず国際館。これが本館に当たりますね。


入り口の表示や案内板の文字が、普通のアルファベットだけでなく、いろいろな国の文字が混じっているのがわかりますか?「E」がカタカナの「モ」になってます。

本館の中にはカフェとか、


劇場とかもあり、


グッズなんかも売ってます。


年間60ユーロくらいでプールとかテニスコートとか使い放題だそうです。でなくても、ストレッチやジョギングをする所には事欠きません。


まぁ、恵まれた環境なんでしょうが、それ故になかなか入居するのは狭き門の様です。
本館のほかに各国の寮があって、全体で5000人以上を収容するそうです。各国の寮と言ったって、全部紹介しきれないから特徴的なのを。

と思ったけどここで一旦区切りとして、明日に続く。

そういえば「明日のこころだぁ~」なんてのがありましたね。
日本にいた頃、大好きでした。「小沢昭一的こころ」。