いや、昨日の懐メロからついこっちに飛んじゃいまして。
渡辺はま子さんですねぇ。昭和25年ですか。
「シナの夜」「何日君再来」「蘇州夜曲」「ああモンテンルパの夜は更けて」等々。
特に「モンテンルパ」に関しては、日本人戦犯がフィリピンで作詞・作曲し、はま子さんが歌い、日本政府もフィリピンに働きかけ、慰問コンサートを開いて減刑・釈放を訴え、実際フィリピンにいた日本人戦犯は釈放されたそうで。
戦後すぐの、あんなに大変な時代でも、日本にはこんなエネルギーがあったんですね。
今の日本人も見習わなきゃね。そして、歌の力は偉大です。
で、この「桑港」じゃないんですが、チャイナタウンのお話です。
パリ最古の中華街はノートルダム寺院近く、モベール・ミュチュアリテ辺りだそうです。
始めは何件かの中華料理屋が集まっただけだったのが、序々に発展して、小さいながらチャイナタウンを形成していったと言われてますね。
現在では他に大きなチャイナタウンも形成されて、この辺りの店もどこかへ移転して行ったのか、嘗ての面影は有りません。やはり中華料理屋とアジア系食料品店が何件か集まっている程度です。
でもまぁ、中華料理を食べて、こんな小公園でのんびり、とかカフェのテラスでお茶でも、とか、いい雰囲気の所ですよ。
ところで、この広場にはこんな歴史もあった様ですね。
この名前(訳注:モベール)は、1161年のサント・ジュヌヴィエーヴ修道院のオベール神父の名が訛ったものと思われる。ソルボンヌができる前は、この修道院は教育の中心地だった:ドイツのドミニコ派修道士、「ル・グラン」と呼ばれたアルベールが教鞭をとった。中世の終わり頃にはパンの市場であり、その後、特に16世紀において、公開処刑の場となった:大勢のプロテスタントが(この中にはヒューマニストの書店主エティエンヌ・ドレなどもいた)生きたまま火炙りにされた。19世紀には、この広場は無数の職人達に場所を提供した:古着屋、藁椅子張り職人、余り布を繋ぎ合わせるパッチワーク職人、シケモクを集めて煙草屋を営む屑拾い、川泥を漁るRAVAGEUR達(訳注:これはどう調べても意味がわからないので悪しからず。RAVAGEURというのは「乱暴者」とか「害虫」とかいう意味なんですが、比喩として使われているのか…)。19世紀に様変わりしてしまったが、フレデリック・ソトン通りの角には古い家も幾つか残されている。
で、ペール・スタークのイラストの角度で写真を撮ってみました。ちょうどノートル・ダムの尖塔が見えてますね。
チャイナタウンの話は何処へ行ったんだ?という気もしますが。
まぁ細かい事は良いじゃないですか。
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