日本のテレビドラマや、日本でも流行った韓国ドラマにも登場したそうですね、この橋。
だからここで記念撮影している日本や韓国の旅行者さんも多いんでしょうか。
車が一切通らない、歩行者専用の橋ですから、夏の夕暮れともなれば夕涼みの人で一杯です。
「ポン・デ・ザール(芸術の橋)」越しに見えるのはルーブル美術館です。
反対側を向けばフランス学士院。
学士院はアカデミー・フランセーズ、碑文・文芸アカデミー、科学アカデミー、芸術アカデミー、倫理・政治学アカデミーからなり、フランスの最高峰の学者さんたちが集まる所ですね。学士院の建物の裏には美術学校があり、これを運営するのが芸術アカデミーです。
ルーブルと、芸術アカデミー・美術学校という二つの芸術を繋ぐ橋ですね。
ところでこの橋、鉄骨と板張りの歩行者専用の橋で、下を向くと板と板の隙間からセーヌ川の水面が見えたりしてちょっと怖いんですけど。
この橋が繋ぐ物はもうひとつあります。橋の手摺りの金網にびっしりと取り付けられた南京錠。
新婚さんや恋人たちが、「ずっと一緒だよ」と取り付けた錠ですね。3/25の記事にもちょっと書きましたけど。あれはノートルダムの所でしたけどね。
最近は恋人や新婚さんに限らず、例えばイタリアの「トレビの泉」にコインを投げ込む様な感覚で、記念として錠を取り付けてく人もいる様です。
そして、南京錠を売るお兄さんもいますよ、ちゃんと。
毎度お馴染みの脱線はこの位にして、と。
この橋が繋ぐもうひとつの芸術の話です。「抵抗文学」ですね。第二次世界大戦中、フランスはドイツに占領されていました。そんな中で、ドイツに対する抵抗運動が起こります。
ジャック・ルコント・ボワネの思い出に捧げる
彼は解放の同志、抵抗運動の創始者にして、解放の時まで指導者であった。
この橋は、彼と同じ様に死や拷問の危険を冒しつつ闘った仲間達との非合法の接触の場所だった。
この場所で、ヴェルコールは彼に、ド・ゴール将軍に宛てた「深夜叢書」を手渡した。
ヴェルコールに関してはもうひとつの記念碑のほうに書かれています。
ヴェルコール(ジャン・ブリュレ)の思い出に捧げる
彼は、「海の沈黙」をもって1942年、「深夜叢書」の共同創始者となった。
そしてまた、ナチス占領下、その献身によって命の危険を冒してまで、フランス人の意識の中にその恒久性と名誉を維持する事を可能にした出版の作業員達の思い出に捧げる。
1942-1992
「この場所、世界で唯一にして最も輝かしい場所、思いを巡らせ、夢を育み、魂を昂らせた場所、ポン・デ・ザール。」
ヴェルコール「星への歩み」より。
ヴェルコールはピエール・ド・レキュールと共に、抵抗文学を掲載した「深夜叢書」を興しました。ヴェルコールとはペンネームで、本名はジャン・ブリュレ。1942年に「海の沈黙」を、1943年に「星への歩み」を書いて、「深夜叢書」から出版しています。
「海の沈黙・星への歩み」が岩波文庫から出てますね。「抵抗文学」の代表作です。
そして四つめの芸術。
「海の沈黙」は、1947年、自身もレジスタンスであったジャン・ピエール・メルヴィル監督によって、ハワード・ヴェルノン、ニコル・ステファーヌ、ジャン=マリ・ロバン出演で映画化されてます。尤もヴェルコール自身は映画化には絶対反対で、結局自主制作映画として撮られたそうですが。
当時若干30歳だったメルヴィル監督は、スポンサーも無い、人手も足りない、映画会社にコネも無い、最低な条件の中で映画を完成させ、またヴェルコールが選んだレジスタンスの闘士達の前で試写して、もし一人でも反対者がいたら公開禁止、フィルム焼却というとんでもない試練を乗り越え、やっと上映に漕ぎ着けます。
こういった、全てを自分と、少数の仲間達とで賄って映画を撮る手法は後にヌーヴェル・ヴァーグの若手監督達に引き継がれ、メルヴィルは「ヌーヴェル・ヴァーグの父」と呼ばれる様になりますね。
更に、それまで自作「恐るべき子供達」の映画化を誰にも認めなかったジャン・コクトーは、メルヴィルに、この作品を映画化することを依頼します。メルヴィルの才能と熱意に動かされたんですね。
ルーブル、アカデミー、抵抗文学、ヌーヴェル・ヴァーグ、四つの芸術を繋ぐ接点、まさにポン・デ・ザール、芸術の橋を名乗るに相応しい場所ですね。
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