フランス人のお年寄りに「お元気ですねぇ」と声をかけると、「ええ、ポン・ヌフみたいにピンピンしてます」なんて答えが返って来たりします。
この橋は、まぁ修復や補強なんかはされてるでしょうけど、基本の骨組みは17世紀のままなんですね。なのでポン・ヌフは「丈夫で長持ち」の代名詞。
「ポン」は橋の事。「ヌフ」は新しいという意味です。「新しい橋」ポン・ヌフ。
オールド映画ファンの方は「ポン・ヌフの恋人」なんぞを思い出されるかも知れません。
さて、いきなりこれです。ペール・スターク。
1578年5月31日、アンリ三世がこの橋の礎石を置いた。市民の戦い(訳注:宗教戦争)によって工事は中断され、1599年に再開、1606年7月8日に完成した。バティスト・アンドゥルーエ・ド・セルソーとピエール・デ・ズィルによって設計されたこの橋は、12のアーチに支えられた、278メートルの長さを持つパリ最大の橋である。そしてまた、この橋は途中に建物が建っていない初めての橋でもあった。1608年には、右岸から二つめのアーチの部分に、ルーブルとチュイルリーへと水を供給する汲み上げポンプが設置された。橋の表面はキリストとサマリア人のブロンズの浅浮き彫りで飾られていたが、これは1813年に失われた。1635年、ルイ十三世はドーフィーヌ広場の向かいに彼の父(訳注:アンリ四世)の騎馬像を建てさせたが、1792年に壊されてしまい、1818年にルモによる新しいアンリ四世像が建てられた。この時代の、通りも狭く、空きスペースがほとんど無い街の中で、この広い橋は大道芸人やいかさま賭博師にとっては思わぬ幸運で、彼らは橋の開通と同時にここに集まって来た。はじめに屋外で小喜劇を演じていたタバランの一座、そしてあらゆる種類の香具師、解毒・鎮痛剤売り、歯抜き屋、それにその他多くの行商人達がやって来た。
イタリアのフィレンツェやヴェニスに行った事のある方はご存知でしょうが、昔は橋の上に建物が建ってるのが当たり前だったんですね。そういう建物が無い、今までに無い「新しい」スタイルの橋なんですね。
「歯抜き屋」ってのも凄い商売ですね。昔は歯が痛ければ抜くしか無かったので、免許も試験も何も無い、ただ痛い歯を抜くだけの商売があったんだそうです。
そういう行商人や大道芸人にとっては、所々に半円形のスペースがあるこの橋はまさにぴったりでした。
文中にあるアンリ四世像。
これまた文中にあるドーフィーヌ広場はポン・ヌフのすぐ東側(上流側)にある広場で、こんな感じ。
落ち着いた、静かな所です。ところで、ポン・ヌフの西側(下流側)にもやっぱり広場があります。ヴェール・ギャラン広場です。
ポン・ヌフができるまでは、シテ島は現在ドーフィーヌ広場が造られている「王の庭」までしかなかった。現在のシテ島の先端は、シテにあった三つの小島を併せたもので構成され、新しい橋の中央土台部分となっている。「族長の島」と呼ばれた北の島は、三つのうち一番小さい、水車があった「棍棒島」によって東に伸びていて、「棍棒島」はその水車の力が貨幣を打ち出すのに使われた事から「コイン島」とも呼ばれていた。一番大きい南の島は、15世紀末、この島がユーグ・ビュローの所有だった事から「ビュロー島」と呼ばれた。1314年3月11日、テンプル騎士団の大師ジャック・モレとノルマンディー・テンプル騎士団の受勲者ギーがここで火刑に処されている。
物騒な歴史とは裏腹に、現在ではこの広場も市民の憩いの場です。ペール・スタークとは別に、ジャック・モレの事を記したこんなプレートもありますが、あんまり目に留める人はいない様ですね…
もうひとつ、この広場には記念碑がありますよ。
フランス・カナダ間の友情の証
モントリオールのセント・ヘレナ島産のこの岩の一片は、モントリオール万博開催に際してパリの町に贈られ、1967年4月27日、当広場に設置された。
ポン・ヌフとヴェール・ギャラン広場を隣のポン・デ・ザールから眺めるとこんな感じ。
橋の真ん中、木に覆われているのがヴェール・ギャラン広場です。
ところで、ヴェール・ギャランって、アンリ四世の渾名です。日本のガイドブックなんかでは「色男」とか訳されてるのが多いですけど、いろいろ調べてみたら、フランス語WIKIにこんな事が書いてありましたよ。
『Vert galant est une expression littéraire qui désigne un homme entreprenant malgré son âge.』
「『ヴェール・ギャラン』とは歳にも関わらず女に手の早い男を意味する文学的言い回しである」
歳なのに女に手が早い。ふむ。スケベジジイって事ですかね?
成程。そっちの意味でも「丈夫で長持ち」か。
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