2011年5月28日土曜日

ギロチンの事はあんまり書きたくないなぁ。

さて今日は橋についてのお話。

ワインで有名なブルゴーニュ地方から発するセーヌ川はパリを横切り、ノルマンディー地方のルアーブルの近くで海に到着します。セーヌという言葉自体は「曲がりくねった」と言う意味で、確かに大きく蛇行しています。これはセーヌ川の水源が海抜わずか471メートルにある為、速く勢いがある流れではないからですね。全長780Kmのうち、パリの街は東西わずか12Km、さらにそのうちのサン・ルイ島からエッフェル塔までの川岸が世界遺産となっていますね。

さて、このセーヌ川を挟んでパリの町は「右岸」「左岸」に分かれます。カルチェ・ラタンの学生街・文教地区の左岸に対して、右岸はブティック街、商業地区ですから、俗に「左岸で頭を使い、右岸で金を使う」なんて言われたそうですが。

で、このセーヌ川の両岸を繋ぐ橋は現在パリ市内に37あるそうですが、これもボチボチ紹介して行こうという訳です。今回はコンコルド橋。コンコルドとは調和という意味ですね。
さて、歴史と言えば例によってペール・スタークから行きましょうか(文句言う割にはお世話になってるな)。
1722年7月3日の勅書により、ルイ十五世はパリの商人頭(訳注:ほぼパリ市長に匹敵)と参事会員達に対して、サンジェルマン地区に道を通し、当時既にひどい状態で悪名高かった交通を改善する為にどうしても必要だった新しい橋の建設を許可した。1725年に計画が始まったが、作業は1787年まで手がつけられなかった。それまで資金繰りがつかなかったのである。工事は、技師であり、1747年から道路・橋建築学校の代表者・校長であったジャン・ロドルフ・ペロネーの手に委ねられた。1789年、(訳注:フランス革命による)バスティーユ破壊に際して、「民衆が常にその足の下に古い監獄を踏みつける事ができる様に」その石材を使って工事は進められた。1791年に完成し、1792年から1795年まで「革命橋」と呼ばれる以前に、ルイ十六世の名を冠して命名されていたこの橋は、その後1814年までコンコルド橋と名乗る様になり、1830年にはこの名が不動のものとなった。1931年に大幅に拡張されたこの橋は、マドレーヌ寺院の正面と対応する古代神殿風の正面を持つブルボン宮へと続いている。
で、ここはもとは渡し舟が通う渡し場だったとか、この橋の建造計画が持ち上がった1725年はコンコルド広場(当時はルイ十五世広場)の整備計画が始まった年でもあるとか、この橋にはナポレオンが1810年、戦場に斃れた八人の将軍の像を取り付けたとか、1814年から1830年の王政復古時代には「ルイ十六世橋」の名前が復活していたとか、同じ王政復古時代にはナポレオンの将軍像の代わりに偉大な大臣、海軍軍人、陸軍軍人の像が四体ずつ、計十二体の彫刻が取り付けられた事とか、やっぱり書いてないですね。ペール・スターク。まぁ、スペースの都合もあるんでしょうが。画像はコンコルド広場。
さてこのコンコルド橋がコンコルド広場とブルボン宮を繋いでいるのですね。ブルボン宮とは国会の下院に当たる「国民議会」の建物です。上院にあたるものは「元老院」といい、これはパリ左岸、リュクサンブール公園の中にあるリュクサンブール宮殿にあります。リュクサンブール公園といえば「あヽ無情」を思い出す方も多いのでは?ジャン・バルジャンが少女コゼットを連れて散歩したのがこの公園でしたね。このリュクサンブール公園の中にはリュクサンブール美術館もあって、色々と面白い展覧会などもやってます。

リュクサンブール公園の近くにはダロワイヨのティールームなどもあって、ちょっと贅沢に時間を使ってお茶とか散歩とかするにはもって来いの所です。このリュクサンブール公園には自由の女神像(そう、あのバルトルディー作の)もありますしね。

さて、そんな訳で。今回もまたいろいろと宿題を残した様な気もしますが。例によって(こればっかりだな)また次回。

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