2011年5月19日木曜日

弁証法と女神様の関係について。

さて、いつかの宿題にいい加減手をつけなきゃ、という訳で、弁証法です。

芸術の発展の歴史。なんて論じてたら一生かかります。
ダイジェスト版風に。と言うか百科事典の総論風に。それでも何段階かに分けないと。

ここはやっぱりヨーロッパ芸術史の夜明け、ルネッサンスから参りましょうか。ルネッサンスという言葉も良し悪しな気もしますね。「再び生まれる」というこの言葉には、何となく「生まれ変わった」というか、それまでのもの一切を一新した様な響きがあります。確かにいろんな事が変わったんですが、ルネッサンス期にも、別に中世のものが消え去った訳じゃありません。

現世否定の中世キリスト教と神話の神々に象徴される人間臭さ(?)との融合が、ルネッサンスのひとつの大きな特徴だった訳ですね。この融合をもたらしたのがマルシリオ・フィチーノを中心とするネオ・プラトニスムの思想でした。という事は、否定と肯定が触媒を介して化学反応を起こした、ヘーゲル流に言えば「止揚」されたと言えるかと。

さて、その後も対立も統一も色々ありますけど、それはおいおい続ける事にしましょう。
ルネッサンスについて言えば、この芸術運動にひとつの方向性を与えた思想家、マルシリオ・フィチーノの主著は「プラトン神学」、キリスト教神学をギリシャ哲学で読み解こうと言うものですね。キリスト教と神話の神々は、ヘーゲルの言う「相互媒介」みたいな物だったのでしょうかね。対立し、またまさにその対立によって結びつくと。この対立が解消されて、両者が完全にひとつになった訳ではなく、キリスト教も、神話の神々も、それぞれ存続している所も「止揚」と言う用語に当てはまるかと思うんですが、どうでしょう。

で、ここまで読めばお気づきの方も多いかと思いますが、そしてこれまでの記事でも、「主無しとて春な忘れそ」や「ミッシェルさんも応援してくれてます。」にも顔を出してましたが、おっさんは高階秀爾先生「ルネッサンスの光と闇」の愛読者でして。パリの北の郊外、シャンティイ美術館も大好きなおっさんとしてはやっぱり「三美神」に話を持って行きたい訳です。
シャンティイのラファエルロ「三美神」は小さな絵です。ほぼ同じサイズの、ロンドン・ナショナルギャラリーの「騎士の夢」と対をなすと言われてますね。

で、このシャンティイの「三美神」と、ボッティチェルリ「春」の三美神はいくつかある「三美神」の意味づけの中でも同じグループに属します。「愛」「貞節」「美」の三人の女神様達の動きによって、例の「ゼフュロスとクロリス」の神話の様に、愛を知って成長するプロセスが描かれる訳です。ラファエルロの画面では、腰布をつけた「貞節」と、首飾りをつけた「愛」が対立している(顔を背けあってます)のを、中央の「美」がひとつに結びつけるのですね。
「愛」を知らない「貞節」は、「美」に導かれて「愛」を知る訳ですが、「美」による導きが無ければ、矛盾する物同士です。化学反応を起こさせる触媒、矛盾を止揚する原理が「美」と言う事ですね。

そしてボッティチェルリの「春」の画面、先頭のマーキュリーに続く「三美神」の輪舞。ここでもまた、大きな飾りを着け、乱れた髪の「愛」と、髪をきちんと纏め、飾りを着けていない「貞節」の対立(喧嘩の様に間合いを詰めている?)を、右側にいる「美」が収めています。
エドガー・ウィント教授「弁証法をこれ以上美しく踊らせる事は不可能だろう」 成程。
そしてラファエルロの三美神でもそうだった様に、ボッティチェルリでも、「美」は意識して「貞節」に「愛」を教えようとしています。成長しなきゃいけないんですね。

さて、ざっとだけ御紹介しましたが、まだお読みでない方は、ルネッサンスについては高階先生の名著をお読み下さい。面白いですよー。

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