そしてアメル先生は黒板一杯に「VIVE LA FRANCE!」(フランス万歳!)と書くのですね。
「最後の授業」は、アルフォンス・ドーデの短編集「月曜物語」に収めらていますね。もともとは新聞連載で、「月曜物語」という位ですから、新聞の月曜日号に連載されてたのかな?なんて想像する訳ですが。
フランツ少年は宿題もやっていない上に遅刻までして、どんなに怒られるかとヒヤヒヤしながら学校へ行きます。ところがいつもは厳しいアメル先生は怒らずにフランツ少年に着席を促します。教室には大人達もいて、どうしたのかと思っていると、普仏戦争で負けたフランスは、アルザス地方とロレーヌ地方の東半分をプロイセンに取られてしまい、ここアルザス地方はプロイセン領となり、「国語」の授業はこれからはドイツ語、今までの「国語」フランス語のアメル先生の授業は今日が最後。
授業の終わりに、アメル先生はもう、挨拶の言葉すら言えず、ただ黒板に「フランス万歳!」と書きます。
ドイツ・フランス国境のアルザス・ロレーヌ地方は、両国が取り合いをして、戦争の度にドイツになったりフランスになったりした所です。もともとはここは神聖ローマ帝国領でしたが、三十年戦争後のウェストファーレン条約により、フランスの進攻を喰い止める為にフランスに割譲されました。この辺の事情は、フランス国王シャルル三世が、バイキングの進攻を喰い止める為にノルマンディーをバイキングの首長ロロンに与えたのと似てますね。
ところが、普仏戦争後、アルザス地方の中でも、ベルフォールの町だけはフランスとして残りました。ベルフォールの防衛線は破られなかったのですね。この防衛戦で活躍したのがピエール・フィリップ・ダンフェール・ロシュロー大佐でした。パリのメトロにもダンフェール・ロシュロー駅があります。ベルフォール防衛の英雄を称えて彼の名を冠した広場には、バルトルディ作のライオンの銅像があります。これはバルトルディ(「自由の女神」の作者でもある)が、ベルフォールの町の岩に彫ったライオン像のミニチュアというか、銅像版ですね。
さて、例によってペール・スターク。
彫刻家オーギュスト・バルトルディ(1834-1904)のブロンズの巨大なライオンは、ベルフォールの町と、1870年11月から1871年2月まで、プロイセン軍の攻撃を防いだ守護者ダンフェール・ロシュロー大佐の雄姿を象徴している。ベルフォールの山の赤い砂岩にライオン像を刻んだ後、バルトルディは打ち出しの銅像によるスケールダウン版を提案し、そしてそれはパリの南側の旧境界線の中心に置かれた。慎重な事に、ドイツ人の自尊心を傷つける事がない様に、彼はこの気高いライオンの視線を西に向けたのだった。
この記念碑は1880年に造られ、アルザス・ロレーヌのフランスへの復帰後三分の一世紀を経た1979年、ダンフェール・ロシュローの栄誉を称えるメダルが台座に設置された。
へぇ。ドイツ人の自尊心を傷つけない為…ねぇ。フランス人にそんな気遣いの心があるとは知らなかった。どっちかといえばフランス人は何でも自慢したがるタイプに見えるんですけど。
仕事で西フランスのペイ・ド・ラ・ロワール地方ヴァンデ県に行った時、地方の名産という事でブリオッシュをご馳走になったんですが。ブリオッシュの語源はノルマン語のbroyer(砕く、すりつぶす)とhocher(揺り動かす)といわれ、つまりこれはノルマンディー地方発祥なんですが、日本語でそんな話をしていたら、一緒にいた地元のフランス人さんが(日本語で話していたにもかかわらず)「ノルマン」という単語を耳聡く聞きつけ、「ブリオッシュはこの地方の物だ、ノルマンディーじゃないんだ!」と強く主張して来まして。こういうタイプがフランス人の典型なんですけどね。
ところで、このブリオッシュは通常のフランスパンと違って卵、バター、牛乳を多く使うのでパンというよりは菓子パン、お菓子に分類されます。「パンが無いならケーキを食べれば良いじゃない」として知られるマリー・アントワネットの有名な台詞がありますが、この原文は「Qu'ils mangent de la brioche」、「ブリオッシュを食べなさい」なのですね。実際はマリー・アントワネットが言ったのではないという説もありますが、彼女の台詞としてすっかり定着してます。
「悪ノ娘」リンちゃんに「悪ノ召使」「白ノ娘」を通してブリオッシュがついて廻るのもそういう連想からなんでしょうかね。
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