村 三好達治
恐怖に澄んだ、その眼をぱっちりと見ひらいたまま、もうその鹿は死んでゐた。無口な,理屈っぽい青年のような顔をして、木挽小屋の軒で,夕暮れの糠雨に霑れてゐた。(その鹿を犬が噛殺したのだ。)藍を含むだ淡墨いろの毛なみの、大腿骨あたりの傷が,椿の花よりも紅い。ステッキのような脚をのばして、尻のあたりのぽっと白い毛が、水を含むで、はぢらってゐた。
どこからか、葱の香りがひとすぢ流れてゐた。
三椏の花が咲き,小屋の水車が大きく廻ってゐた。
高校の頃、この詩を読んで鳥肌が立ったのを憶えてます。本当に文字通り鳥肌が立った。ぞわぁっと。おっさんは好んで詩集など読む様な文学青年ではなかったので、これは国語の教科書に出ていて、授業中ゾワっとしてた訳です。そこへ、「この詩を読んでどう感じる?」と、先生がおっさん(勿論その頃からおっさんだった訳ではない)を指名したのですね。今思えば、結構確信犯的に指名したんじゃないかと。或いは愉快犯的にと言おうか。これって自意識過剰か?
で、おっさんは予習などする優等生ではなかったので、授業中に鳥肌立ててた事からもお判りの様に、そのとき初めてその詩を読んだのであって、前もって答えなど用意してませんでした。だから感じたまま、鳥肌立った理由をそのまま言ったのですね。
「世の中ってのは、(「世の中」にとって)細かい事なんかにはお構い無しに廻って行くもんなんですね」と。一応合格点を貰いました。
その時は本当にストレートな感想だけでしたけど、後になって考えがまとまりました。
死んでる本人(ここでは「鹿」)にとって、これはまさに生きるか死ぬかの問題、一大事なんですが、世間はそんな事お構い無く、いつもと変わらない。(葱畑で農夫が働き、花は咲き、水車は回り続ける。)普段、「世の中」「世間」「社会」という言葉をよく耳にも口にもしますけど、それって一体何なのか?一人一人の人間の集合体が「社会」じゃなかったのか?いつの頃からか「社会」「世間」という化物が一人歩きを始め、本来は大切な構成要素である筈の人間一人一人の事なんか見向きもしなくなり、それどころかそのちっぽけになってしまった人間を、社会という巨大な化物が押し潰してるじゃないか。(「鹿」は「犬」に噛み殺されていた)
と、高校生の頃のおっさんはこの詩を解釈した訳ですが。その頃から、この暗い、ヒネクレた性格は定着していたって事ですねぇ。しかし、改めてこうして文字にして読んでみると、ギレン閣下の演説みたいだ、という気もしたりして。とまぁそれはさて置き。
なんでこんな事を言い出したかというと、昨日の「西部戦線異状なし」から、ここへジャンプした訳ですよ、例によって。この映画のタイトル「西部戦線異状なし」は、実はその後「報告すべき件無し」と続く報告書の文面なのですね。この映画の主人公ポールは、戦場に出て初めて戦争の悲惨を知り、戦争を嫌悪しつつ戦死しますが、彼が戦死した日に部隊から指令部に出された報告書がタイトルになってます。「異状なし、報告すべき件無し」と。
とするなら、この「鹿」は「西部戦線異状なし」のポールであると同時に、「鉄砲玉の美学」の清であり、「イージー・ライダー」のキャプテン・アメリカであり、「人間失格」の葉蔵であり、「ジョニーは戦場へ行った」のジョニーであり、「異邦人」のムルソーなんじゃないか?或いはコリン・ウィルソン「アウトサイダー」を読んだ方ならゴッホやニジンスキーを挙げるかもしれませんね。ドン・キホーテ(ロマン派の解釈による)を加えてみたい気もします。相変わらずあちこち飛びまくりな事をお詫び申し上げますが。
で、その後(高校生の頃からですから三十年です)、他の方の解釈を眼にする機会もありまして、感じ方というのは人それぞれなのだな、と改めて思いました。
曰く、前連の、鹿の死体の描写の部分は色彩の要素が強調されているが、鹿は死んでいてもう動かない。後連は葱の香り(嗅覚)、花(視覚)回る水車(聴覚)などで「生きている」とわかる。「静」と「動」の対比、「生」と「死」の対比が際立っている…
前連の「死」の止まった時間に対して、後連の「生」の動いている時間と、そこに存在する物が鎮魂の歌を歌っている…。
こういう方々はどうしてこういう発想ができるのでしょうね。(ってかおっさんはなんでそういう発想しかできないんだ?)特に震災後、まぁ多分に変な所があるのは幾重にも事実であるとしても、日本の「社会」も、なかなかどうして…と思いますし、そう、喪われたものに対する鎮魂の歌を忘れない様な「社会」(んー、またこの言葉使っちまった)でありたいですよね。
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