昨日の記事の文章から、今度は「さらば青春の光」にジャンプしちゃいました。
元々は1973年のザ・フーのアルバム、「Quadrophenia(四重人格)」ですね。ロック・オペラを前提にして書かれた全作詞作曲ピート・タウンゼントのコンセプト・アルバム。「四重人格」とは、ザ・フーの四人のメンバーの象徴だとか、映画に関しては登場人物のジミー、エース、デイブともう一人誰だっけ…の事だとか言われてますね。
これが1979年にフランク・ロダム監督で映画化されたんですが。しかし邦題「さらば青春の光」ねぇ。そういうお笑いコンビさんもいますが、コンビ名はこの映画のタイトルからとったんだそうですね。おっさんとしては「四重人格」のままで良いんじゃないかって気がするんですけど。それはともかく。
で、初めてこの映画を見た時、ラストシーンどうなったのか良くわからなかったんですね。(いきなりラストシーンの話から入るか?普通)スティング演じるエースのスクーターを盗んだジミーは、崖の上でスクーターをでたらめに走らせ、最後は絶壁の上から見える海に向かって突っ込むんですよね。で、下の岩場に落ちて壊れるスクーター。ジミーはどうなったの?特に説明は無い。彼の「青春」のシンボルであったスクーターはもう粉々になってしまった。青春は終わった、という解釈と、ジミーもスクーターと共に崖からダイブしたんだという解釈がありまして、でもジミーが落ちる所は描かれてないし…とか思ってたら目ウロコの解釈が。
「レコード・コレクター」誌の加藤ひさしさんが書いてたのは、「青春のシンボルであるスクーターを崖から落としたジミーは、崖の上で、夕方まで、青春の終わり味わっていた。青春の終わり、大人になるという事、そういう事を半日考えて、夕方、ジミーが海辺をとぼとぼ歩くオープニングシーンに繋がっている。ラストの崖のシーンと、オープニングの海辺のシーンの間に半日ある」と。この映画の結末は、冒頭から示されていたって事なんですね。
思えば「青春の終わり」というのは永遠のテーマなのかも知れませんね。「少年たちの背中には翼が生えているのだろう」とは「パタリロ!」17巻「11月のサナトリウム」のナレーションですが。
パタリロ「翼を失くした少年はどうなるのかな」
バンコラン「決まっている 男になるんだ」
ふーむ。しかし「男」になるのも大変な様で、その昔、侠客さんたちの間には「手締めの修行」というのがあったんだそうで。
「男になりたい 男で生きたい 男で死にたい」と唱えながら手締めをしたそうですね。
「いい男」どころか「男」でいるのも大変な訳ですね。なんてこったい。
ところで、話が突然戻りますけど、「さらば青春の光」を初めて見たのは大学生の時で、英会話サークル(に名を借りた遊びサークルというウワサもありますが)にいたおっさんとしては、この映画の主人公たちの話す英語が面白かったです。所謂コックニーなんでしょうかね。先程は「エース」「デイブ」と普通に表記しましたけど、映画の登場人物達は「アイス」「ダイブ」と発音してます。「エイ」の音が「アイ」に変わってしまうというのはイギリスのあまり品の良くない英語の特徴です。元イギリスの犯罪者の流刑地であるオーストラリア訛りなんかもそうですね。「バララットの黒ジャック」とか。「シャーロキアン」さんはご存知でしょう。
以前ロンドンのタクシーの運転手さんにダービー・ストリートと言ったら通じなくて、デイビー・ストリートと言ってみてもまだ駄目で、結局行きたい所番地を書いて見せたら、「何だ、ダイビー・ストリートの事か」と言われました。
日本語は逆で、「アイ」の音が「エー」に変わると品が悪くなりますね。「うるさい」と言うより「うるせえ」、「~したい」と言うより「~してえ」と言う方が乱暴な感じがします。タモリ氏が江戸弁遊びなるものをやってましたね。灰皿→へえざら 鯛→てぇ とか。そのうち「おらぁ江戸っ子でい」と言ってる積りが「エレェ・エデッケデェ」とか、訳の解らない言葉になってたとか。
やっぱり言葉って面白いですねぇ。で、映画の話はどこ行った?
0 件のコメント:
コメントを投稿