さて、今日もまた東駅絡みですが。
東駅のすぐ南側、マジェンタ通り沿いにあるサン・ローラン教会です。ローマ帝国支配下の一世紀、この近くを通る石畳の街道が造られてます。これはほぼ現在のサン・マルタン通りの位置にあり、北はサンリスへ、南下すればセーヌ川を境にサン・ジャック通りと名前を変え、オルレアンへと続き、この地区はかつて交通の要衝でした。古くから市が開かれており、この市を1182年に国王フィリップ二世が買い上げ、これが後のパリの大市場、「レ・アル」(現在はショッピング・モールになっている)の源流の一つとなるのですね。
また885年から886年にかけてパリを包囲したジークフリート率いる三万人のバイキングは、周囲で破壊・略奪の限りを尽くし、かつてここにあった教会と修道院も大変な被害を受けた…事なんかは例によって書かれてないんですが、気を取り直して参りましょうか。
またもやお馴染みペール・スターク。
メロヴィング朝時代から何度か建て直された聖堂の土地に建てられた現在の教会は、12世紀に建てられ18世紀に増築された鐘楼、1429年の内陣、15世紀に拡張された身廊の複合建造物である。1621年、建築家ルポートルが古典様式の正面入り口を建てたが、これは現在では失われた。1712年、内陣の裏にドーム屋根を頂く、ロトンド形式の聖処女礼拝堂が造られた。1863年から1867年にかけて、教会正面は、その少し前に開通したストラスブール大通り沿いに、他の部分よりやや高い二つの梁間を添えて揃えられた。新しい教会正面は、エナメルを塗った板石にバルズによって描かれた聖ラウレンティウスの生涯に題材をとった絵画で飾られている。これらの作業はコンスタン・デュフーの監督の下に行われた。
キリスト教国に生まれ育った人なら、これで十分なんでしょうが、日本人にとってはサン・ローランと言えばデザイナー?ブランド?という感じですから、ここでフランス語でサン・ローラン、日本語で聖ラウレンティウスの生涯を見てみましょうか。
三世紀、教皇ファビアヌスはローマを七つの地区に分け、それぞれ助祭を置いて担当させました。ラウレンティウスはその助祭の一人でした。ウァレリアヌス帝のキリスト教迫害時代、教皇シクストゥス二世と他の六人の助祭が捕らえられ、処刑された時、財産を管理していたラウレンティウスは、迫害者の代官から教会の財産を差し出す様に要求されます。彼は貧者や病人を連れて行き、「彼らこそが教会の宝です」と代官に告げたと伝えられます。
ラウレンティウスは結局死刑になりますが、その方法は「網焼き」でした。火炙りの刑には違いありませんが、お餅か魚みたいに網で焼かれたのですね。かれは火にかけられてしばらくすると、「片面はもう焼けたよ、もうひっくり返して良い」と言ったそうですが…これは伝説の様ですね。実際にはラウレンティウスは斬首になったと考えられていますが、現在でも彼のシンボルは「焼き網」です。
昔のこういう処刑とか拷問ってのは物凄いですけど、処刑される方も大した物ですねぇ。三世紀のパリ司教・聖ドニは斬首になり、刎ねられた自分の首を持って歩いて行き、パリの北の郊外で死んだと伝えられます。彼が死んだ所が現在のサン・ドニ市、サッカーファンの方は御存知でしょう、スタッド・ド・フランス、通称サン・ドニのスタジアムがある所です。このスタジアムは1998年のサッカー・ワールドカップの為に造られました。ここだけでなく、フランス各地で試合が行われ、開催各都市は、地元の名物を織り込んだ独自のポスターを作りました。ボルドーなら葡萄、トゥールーズなら航空・宇宙関係とか。サン・ドニの町のポスターで、頭の無い人が自分の頭をドリブルしてるのがあったんですが、教会関係から苦情でも出たんでしょうか、しばらくしたら無くなってましたね。
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