2011年5月3日火曜日

ヘーゲルさん、こんにちは。

さて、先日、大天使の復活について書いてから、「あ~、近くにあれもあったなぁ、書かなきゃ」と気になってたものについて。

印象派発祥の地。というとどこを思い浮かべますかね。カプシーヌ大通り35番地?1874年、第一回印象派展が開かれた、写真家ナダールのアトリエがあった所?さてね。ヒネクレタおっさんは「カフェ・ゲルボワ」を挙げる訳ですが。

毎度お馴染み「ペール・スターク」に拠りますと…
1863年から、マネは彼が絵の具や筆を買っていた画材屋のヘネッキャンの店の近く、グランド・リュー・デ・バティニョル11番地(現在のアヴェニュー・ド・クリシー9番地)のカフェ・ゲルボワに熱心に通う様になった。彼の周りには、若い芸術家達のグループが形成されて行った。バジール、ドガ、ルノワール、ファンタン・ラトゥール、ピサロ、モネ、セザンヌ、そして他にも多くの芸術家がいた。彼等は毎週金曜の夜、いつも同じ場所:入り口の左の小さなテーブルに集まった。しばしば、ゾラやデュランティといった友人の作家達もこの週一回の集まりに参加した。そして、彼らは一緒に、新しい絵画の基礎を築いた。活き活きと、すっきりと、そして光に満ちた絵画。印象派が誕生した。芸術の歴史の一ページが、今はもう無くなってしまった、この地区のカフェで刻まれた。
現在ではこの場所は洋服屋さんになってます。周りはアフリカ・アラブ系の移民の人達のお店が並ぶ地区になっていて、古着屋やケバブ屋なんかもあり、楽しい界隈ですね。おっさんもよく洋服とか靴とかこの辺で物色してます。おっさんがよく出没するのはあと北駅の周辺とか、バルベス地区の「タチ」とか。そう言えば最近モントルイユの蚤の市にあんまり行ってないな。が、まぁそれはさて置き。

芸術家ってのは、いつの時代も喫茶店で芸術を語るものの様ですね。そうやって集まった若い芸術家達が1874年に開いたグループ展が、後に、歴史上「印象派展」と呼ばれる様になった訳ですが、「ペール・スターク」に名前が刻まれてる中ではバジールだけが印象派展に参加してませんね。元々裕福な家の出身だった彼は、金の力で兵役逃れをする事ができたにも拘らず、普仏戦争に出征し、戦死したのでした。バジールと共にルノワールも出征しましたし、モネやピサロはロンドンに避難しました。普仏戦争と、それに続くコミューンの乱が無ければ、第一回印象派展はもう数年早く開かれていたでしょうね。

ナポレオン三世が始めた普仏戦争がバジールを戦死させ、印象派展を遅らせることになった訳ですが、マネは、やはりナポレオン三世が開かせた「落選展」によって一躍若い芸術家達の英雄になって、印象派の先駆者の一人となったのですから、歴史ってのは皮肉なもんですね。

1860年代の英雄・先駆者をマネとするなら、1850年代の英雄・先駆者はクールベでしょう。マネの「落選展」に相当するのはクールベの「写実主義」でしょうかね。絵画表現の技法に関しては伝統的なものの中に留まりつつ、その主題の取り扱いにおいて革新的であり、既成の絵画の「約束事」をぶち壊したクールベと、決して絵画を「革新」しようなどとは思っていなかったのに、斬新な表現で「革新者」となり、印象派の若い画家たちをリードしたマネと。この対照的な二人がやがて印象派の中で一つになるのですねぇ…と書いてたら、「これって弁証法じゃん」と一人で納得してしまったおっさんでありました。

考えてみれば、バロックと古典主義、ロマン主義と新古典主義、芸術の歴史というのはある意味、弁証法的に発展して来たんじゃないかと考える訳ですが、この続きはまた今度。本日はここまで。明日も早朝から深夜まで仕事だぜ!寝よ。

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