こういう有名観光名所の事を書くのはあんまり得意ではないんですけどね。
まぁたまにはいいか。
サン・ジェルマン・デ・プレの続きです。
こんな看板がかかってました。サン・ジェルマンの信者の皆さんが巡礼に行くらしいですね。モン・サン・ミッシェル。
たまたま「フラ・アンジェリコ展」をやってましたよ。と言っても作品がある訳じゃなく、作品の写真ですけどね。
それでも見応えがありました。
そうでなくてもこの教会を見学する時は結構エネルギーを使うんですが。
一通り眺めるだけでもやっぱりかなり時間がかかりました。でもやっぱり、毎回来る度に凄いと思うのはこれですよ。
レリーフに見えるけれど、実はこれ、描いてあるんですね。ここまで描ける様になるにはどれだけの修行が必要なんでしょうか。
ここらで歴史の方に行きましょうか。やっぱりコレですか。
クロヴィス王(訳注:フランス・ドイツ・北イタリアの素、フランク王国の初代国王)の息子、ヒルデベルトは543年頃にサン・ヴァンサンと聖十字架(訳注:キリスト磔刑に使われたとされる十字架で、その断片が各地の教会に祀られている)に捧げる聖堂を建立した。聖堂はメロヴィング朝の王家の墓所となった(サン・サンフォリオン礼拝堂)。教会の名前の由来となった聖ジェルマンもまた576年にここに葬られた。ノルマン人に略奪され、教会は1000年頃に再建された。鐘楼と前庭がそれを物語っている。工事は長期に亘り、建築上の様々な問題は多くの新技術の工法で解決された。身廊は1050年頃完成した。半円形の内陣は、放射状に並ぶ、尖頭アーチを持つ五つの礼拝堂に縁取られた周歩道に囲まれている(1163年)。1245年にピエール・ド・モントルイユが聖処女礼拝堂と修道院を加えたが、現在は残されていない。このベネディクト派修道院は、法王の直接の保護の下、1631年にはサン・モール学派を建て、この修道院はドム・マビヨンをはじめとする多くの優れた学問僧達によって、実り多い歴史研究の中心地となった。1790年には修道院は姿を消した。19世紀の教会の修復は必ずしも最良のものではなかったにしろ、教会の建築物はともかくもその価値を取り戻した。
教会を破壊したノルマン人とはバイキングの事です。ノルマン=北の人=バイキングはセーヌ川を遡って、パリはおろかもっと上流まで行っているのですね。その進攻を食い止める為、911年、シャルル三世がバイキングの首長ロロンにノルマンディーの土地を与え、ノルマンディー公爵として封じた訳です。これがノルマンディー公国の起源でしたね。
ピエール・ド・モントルイユは13世紀の建築家ですが、彼の生涯についてはあまり詳しくはわかっていないそうです。
ドム・ジャン・マビヨンは「歴史考証学の父」と言われた碩学で、「古文書学」の成立に貢献した人でもあり、サン・ジェルマン・デ・プレのすぐ近くの「マビヨン通り」や地下鉄「マビヨン」駅にその名を残してます。
で、ここからベネディクト派の事とか、マビヨン以外にもいっぱいいる学者さんとか、バイキングの事とか、続けようと思ったらきりが無いですねぇ。泥沼に嵌まる前に離脱しておこう。
画像も重たいけど、やっぱりテーマも重過ぎる。
てか素直に観光名所的な事を書いたらもっと軽く書けるだろうに。自業自得か。
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