2011年7月17日日曜日

掌の皺と皺を合わせて。

「南無~」

なんていうTVCMがありましたね。

モン・サン・ミッシェル、サン・ピエール教会。

今までにもいろいろ教会を紹介して来ました。異教徒が、彼らの神に祈る訳でもなく、ただ見学させて貰うのですから、教会に入る時と出る時、一応祭壇に一礼する様心がけております。娘から「武道をやってる人の『正面に礼』みたい」だと言われましたが。

こういう所では、本来手を組んで拝むべきなのでしょうが、そこはやはり根が日本人。やっぱり拝む、祈る時は手を合わせてしまうのですよ。

どこと言わず、教会に入ると、蝋燭を灯す所があって、近くに蝋燭が置いてあります。大が何ユーロ、中が何ユーロ、小が何ユーロ、なんて書いてあって、誰も近くで見張ってる訳でもありませんが、蝋燭の脇にある代金入れの募金箱みたいな奴に、みんなちゃんとその金額を入れて火を灯していきます。

パリ、サン・ジャン・バティスト・ド・グルネル教会。

あちこちの教会を歩いて、こういう蝋燭を灯す台を見ましたが、これってどういう意味があるんだろうかとふと考えまして。で、またこれが根が日本人だもんですから、日本で言うお線香をあげる様な感じかな?などと思ったんですが。ここで行き詰まりました。

お線香って何の為にあげるんだろうかと。調べてみたら、元々は線香というのは座禅の時、この線香が燃え尽きるまでとか、時間を計るのに使われたそうですね。
そして、それとは別に、仏様にお供えするお線香というのは、お菓子やお酒をお供えする様に良い香りを仏様にお供えする、という意味と、アロマセラピーじゃないですが、香を焚いて心を落ち着けて、仏様なりご先祖様の霊なりに向き合うという意味があるんだそうです。成程。

じゃあ、キリスト教会の蝋燭の方はどうなんだろう。サン・ルイ・オン・イル教会の蝋燭売り場に、こんなプレートが懸かってました。そういえばこんな感じのプレート、ほかの教会でも見た事あったかな。観察力が足りませんねぇ。


『この蝋燭を灯します。

主よ、

私が灯すこの蝋燭の火が、私の困難の時、決断の時に、貴方が私を照らす光であります様に。
私の全ての利己主義、傲慢、不純を焼き尽くす焔であります様に。
私の心を暖め、愛を知る為の炎であります様に。

主よ、

私は貴方の教会に長く留まっている事はできません。
この蝋燭を灯します、これは私が貴方に差し上げたいと願う私の一部です。
日々の営みの間も、私が祈りを捧げ続ける事にご助力下さい。

アーメン』

蝋燭を自分の一部として置いて行くので、この蝋燭が燃えている間は私がここにいて祈っていると思って下さいという事ですね。日々の糧を得なければならない身としては、ずっと教会で祈っている訳にも行きませんからね。

ルーアン、サント・ジャンヌ・ダルク教会。

こういう事って、小さい頃からそういう文化の中で育った人にとっては当たり前の事かも知れませんけど、異教徒、異邦人にはなかなか難しいですね。
フランス生まれ、フランス育ちのウチの子供達が初めて日本の法事に参加した時には、お焼香の仕方が分からなくて焦ったそうですが。
そういえば子供の頃、法事で焼香というと、祖父に手を引かれて、「この抹香を炭火(?)に振りかけるんだよ」とか「じゃあ手を合わせて」とか教えて貰ったなぁ…

その割に何の為にお線香をあげるのかを知らなかったってのはどういう事なんでしょうか?
不勉強って事ですね。
合掌。

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