2011年7月13日水曜日

続・弁証法

さて昨日の続きです。

以前にも美術の発展の歴史って弁証法的に続いて来たんじゃないか、なんて書きましたが、昨日出て来たのはまずアングルとドラクロワ。シャセリオーに影響を与えた二人、片や新古典主義の総帥、片やロマン主義の旗手。

この少し前、17世紀には古典主義とバロックの間に対立(?というか違い)がありました。

古典主義、新古典主義は何れもまず何より絶対的な美の基準というものを想定していました。時代、民族、全てを超えて、誰にとっても必ず「美」であるもの。従って古代の芸術を模写する所から始まります。そして「美」とは永遠不変のものでなければなりません。

ロマン主義の「美」は、色や形でなく、対象の見方、感じ方の中にあるのですね。だから一般的に言えば死体の絵なんか誰も見たくはないだろうけど、その「死から生へ」「絶望から希望へ」の一瞬のドラマを表現する為には死体置き場に通ってスケッチだってする訳です。(5/29の記事参照。)そして自分にとって「美しい物」と他人にとって「美しい物」が正反対だってかまわないし、10人いれば10通りの「美」があリます。

バロック芸術は感情に訴える芸術です。だから殉教者の絵を描くにしても、バロックの物は血がダラダラ、殺される方の聖人は苦悶の表情を浮かべて大仰なポーズをとります。

古典、新古典主義は理性に訴える芸術です。という事はつまり理性的な判断、この登場人物のこのポーズはこういう感情の動きを表しているとか、ここでこういう表現がとられているのはこういう意味を暗示しているとか「読み取る」事、そしてそのためには読み取れるだけの知識を蓄えなきゃなりません。

表現法においても、古典、新古典はピラミッド型や垂直・水平を強調した、動きの少ない構図を好みますがバロックやロマン派では動きの多い、対角線構図やジグザグ構図などのダイナミックさを好んで使います。

また古典・新古典では第一に形、第二に色彩でした。ルイ十四世の時代に整備された「アカデミー」の美術教育の中心理論が古典主義だったので、以後美術教育ではまずデッサン、肉付け、最後に彩色というカリキュラムが確立されます。これ、現代にまで続いてますね。

バロックやロマン派では色彩を優位に置きます。感情に訴える効果が高いからですね。

ざっと思いつくだけでもこれだけあります。

で、古典主義とバロックを結びつけた、弁証法で言えば「止揚」したのはフランスでした。バロック全盛の17世紀、フランスには古典主義が成立し、バロックの巨匠たちの作品は顧みられませんでした。古典主義を完成させたのはニコラ・プッサンとクロード・ロラン。(ここに既に後のシャヴァンヌとモローみたいな違いが見られますね。)

フランスバロックの巨匠シモン・ヴーエもほぼ同時代人です。ヴーエが留学先のローマからフランスに帰って以降、フランスの絵画全般が明るい色調になったとは言われますが、フランス美術にバロックの影響がはっきり現れて来るのはヴェルサイユ以降じゃないですかね。
ここに古典主義とバロックの「矛盾」は「止揚」されたんじゃないかと。

そして新古典主義とロマン主義を結びつけたのがシャセリオーですね。バロックと古典主義の両方の流れを汲む新古典主義は、それでもどちらかと言えば古典主義に近いものでしたが、かつてのバロックの様に、新古典主義とぶつかったのがロマン主義です。

この新古典主義のアングル(とはいえアングルもかなりロマン派的素質を持ち合わせてもいましたが)の弟子にして、ドラクロワの色彩感覚にも影響を受け、この両者を融合させた、「止揚」したのがシャセリオーだったんじゃないでしょうかね。

かつて、古典主義がバロックを「飲み込んだ」のに対して、新古典派から出発してロマン主義を「取り入れた」シャセリオーはしかし、歴史上の分類ではロマン派に含まれますね。これまた面白い所です。

なんか取り留めない文章になって来ましたが。
例えば、こういった文脈で「中世教会美術とルネッサンス芸術」なんていう弁証法の応用もできるんじゃないかと思いますけど、如何でしょう。

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