さて、昨日の「トリニテ(三位一体)」の話です。
キリスト教会に所謂「異端」が生じたのは312年、コンスタンティヌス帝がキリスト教に改宗して間も無くの事でした。それまではキリスト教は迫害されて、殉教者も多く出ましたが、ここにキリスト教は公に認められた訳ですね。
一時はコンスタンティヌスの甥、「背教者」ユリアヌス帝がキリスト教を退けようとしますが、ユリアヌスはペルシャで戦死、「ガリラヤ人よ、お前は勝った」の言葉を残したと言われます。ま、詳しくは辻邦生さんの「背教者ユリアヌス」を御一読下さい。
キリスト教が認められた事、それ自体は結構な事でした。ところが、これが思わぬ問題を引き起こします。
と言うのは、皇帝がキリスト教に改宗したという事は、これからはキリスト教の時代になるだろうと誰もが考えたからで(そして実際そうなりました)、となると、命をかけてイエス様の教えを守ろうとした迫害時代の信者達とは違い、それほどイエス様を強く信じない人達、それどころか「時流に乗り遅れない」為だけに改宗する人が出て来たのですね。そして、そういう人達の流入と共に、それまでのキリスト教の「神」の概念とは別の物がもたらされた訳です。
勿論、キリスト教の中にも、それ以前の土着の宗教の要素なんか取り入れられてはいますが、この時の問題はそれどころではありませんでした。教会を二分する論争になるのですね。
ギリシャ・ローマ神話の神々は、キリスト教の「神」とは全く異質な、かなり人間臭い…というか結構生臭かったりもする訳ですが、こういった神話に語られる神々のもう一段奥に、全ての存在の元になる、根源の神…キリスト教風に言うなら「造物主」になるのでしょうが…が想定されます。この神は不可知であり、人間には知覚する事は不可能です。こういう「不可知の神」の概念がキリスト教に流入した結果、人間は神を知覚できないのだから、イエス様は神ではない―人間に知覚出来たのだから―という意見が出てきます。アレイオス派、或いはアリウス派と呼ばれる異端がそれですね。
イエス様は神による「被造物」であり、「不可知の神と人間との間を仲介する、神と人間との中間の存在」という事になると、これはキリスト教の神概念とは全く違います、325年、ニカイア宗教会議でアレイオス派は異端と確認されますが、この時活躍したのがアタナシオスさんですね。その後カトリックとアレイオス派の論争は更に続きますが、381年のコンスタンティノポリス宗教会議でアレイオス派は決定的に排除される事となる訳です。異端として追放されたアレイオス派は、4世紀の民族大移動で西ヨーロッパになだれ込んできたゲルマン民族の間で布教し続けます。
このコンスタンティノポリス会議ではまた、マケドニオス主義という異端も退けてますね。コンスタンティノポリス主教のマケドニオスが主張したのは、イエス様は父なる神と同等、同質であるが、精霊は被造物であるという事で、アレイオス派の主張を神の霊である「精霊」に当てはめたという感じでしょうか。
『聖書にある「神」の出現の三つの形、「父」「子」「精霊」は、三つの表れ方をするけれど三つの異なる物ではない、一つの神の三つの姿である。』
この三位一体の教義がアウグスティヌスやナジアンゾスのグレゴリウスなどによって成立するのはコンスタンティノポリス会議の後の事でした。
サベリウス主義は、唯一の神が父、子、精霊の三つの役割を演じ分けていると考えましたが、それでは父も子も精霊も一時的なものという事で、永遠ではなくなってしまう。これも却下。
三位一体の教義と並んで、イエス様は如何にして同時に「神」であり「人」でありうるのかというのも解答不能の問題ですね。
アレクサンドリア派に代表される所謂「仮現論」的傾向は、イエス様の事を「神が人間の姿をとっている」と考え、またアンテオケ派に代表される所謂「養子論」的傾向は、「神になった人間」と考え、そしてどちらも問題がありますねぇ。
アレクサンドリア派に近いアポリナリオスは、イエス様が如何にして同時に神でも人間でもあり得たのかを解き明かそうとしました。人間は「肉体」と「霊魂(肉体的生命を司る)」「霊(人間の理性や道徳を司る)」で出来ているが、イエス様は、霊でなくロゴスを持っているのだと。
聖書の最初に書かれてますね。「始めに言葉があった。言葉は神と共にあった。言葉は神であった」と。これ、便宜上「言葉」と訳されてますけど、本来の言葉は「ロゴス」でした。イエス様は「霊」の代わりに全ての原点の存在である「ロゴス」を持っている、人間の罪は「霊(動物的でない高次の意識)」に宿っている、従って「霊」を持たないイエス様は完全に罪の無い存在だ、とした訳です。
ところがこれ、「イエス様は人間ではない」と言ってるのと同じですね。これも却下。
アンテオケ派に近いネストリウス(後にネストリウス派は中国に渡って「景教」となりますね)は、聖母マリア信仰に絡んで、マリア様を「神の母」(当時の用語で「テオトコス(神を産んだ者)」)と呼ぶと、人間イエスの肉体を産んだマリア様が、神としてのイエス様を産んだ事になる、人間から神が産まれてはおかしい、と主張します。イエス様は人性(人間としての本質)と神性(神としての本質)を併せ持っているが、マリア様はその人性についてのみイエス様の母の筈だ、と。
ところが、当時はこういう神学用語もまだ統一されてなかったので、用語の行き違いから、「イエス様には神と人間の二つの人格が同居している」との主張にとられてしまい、異端として退けられました。ネストリウス本人は勘違いで追放されてしまいましたが、後にこの勘違いを理論として推し進め、イエス様には神と人間、二つの「人格」があると教えた人達を歴史上「ネストリウス派」というのですね。ネストリウスさん、勘違いで追放された上に異端の親玉にまでされて、踏んだり蹴ったりです。
ところで、こういう異端論争が現れる事によって教会側のこの問題に対する対応が整備されて行ったとも言える訳ですよね。
アレイオス派の主張が無ければ「三位一体」の教義は定められなかったかも知れません。
アポリナリオスやネストリウス(誤解であったにせよ)は、イエス様が如何にして同時に人間であり、神であり得るかを教会に対して改めて問いかけたとも言えるし、それによって教会の公式見解というかガイドラインが整備されて行くんですものね。
皮肉といえば皮肉な話です。
そして教会は、自分からこの問題の解答は示していません。イエス様は人間である、イエス様は神である、父と子と精霊は一つである、ただそれは、一時的な役割などでなく、本質的な存在である。
それをどう解釈するかはそれぞれに任されていて、異端へと踏み外さない限りはどう考えても自由、という事なんですね。
ここに引用したキリスト教理については「キリスト教教義入門」A.リチャードソン/C・H・パウルス著をお読み頂く事として。
でもこの問題、クリスチャンさん達の心の中では矛盾無く「信じられている」のでしょうが、完全な、如何なる意味でも異端に陥らない「理論」は現れ得ないと思うんですが。
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