さて、シャセリオーです。といってもあまりお馴染みの名前ではないかも知れませんが。
テオドール・シャセリオー(1819-1856)。フランス領サン・ドミンゴ(現在のサン・ドミニカ共和国およびハイチ共和国)の出身。
日本ではいまひとつ有名でない画家ですが、ルーブルにも彼の作品「エステルの化粧」や「海から上がるヴィーナス」なんかがありますね。
で、このルーブルに入っている画家が、先日のサン・ドニ・デュ・サン・サクレマン教会のドラクロワの様に、町の教会で普通に見られるんですねぇ。
ここはサン・ロック教会です。
毎週という訳でもない様ですが、この教会では大抵の火曜日にコンサートが聴けます。それもロハで。(懐かしい言い回しですね。ロハ。只。)
またもやペール・スターク登場。
1521年、ここに聖シュザンヌ、または聖痕の名で呼ばれる礼拝堂が造られた。1577年に拡張され、礼拝堂はサン・ロックの保護の下に置かれた。1633年教区教会に昇格し、サン・ロック教会はル・メルシエによって再建された。資金調達の失敗で、工事は進まなかった。1719年、カトリックに改宗した財務官ジョン・ロウが、身廊を完成させるに足る十万リーヴルを寄付した。ロベール・コットによってデザインされた正面がやっと造られ、教会は1740年7月10日に献堂された。1795年10月5日(フランス革命暦葡萄の月13日)、ボナパルト将軍がドーファン袋小路(サン・ロック通りの南の延長線上)に大砲を置き、教会の階段に集結していた王党派蜂起軍に砲弾を浴びせた。
物騒な歴史ですね。で、先日のドラクロワはペール・スタークに書いてあったけど、ここのシャセリオーの事は書いてないですねぇ。何故でしょう?シャセリオーはドラクロワ程には有名じゃないというのは、日本でもフランスでも同じなんでしょうかね。
でそれはさて置きシャセリオーの作品の方を。
シャセリオーの最晩年の作品ですね。とは言っても彼は37歳の若さで亡くなってます。一度大病した後、復帰してこのサン・ロックなどの教会装飾の仕事に精出してましたが、とうとう力尽きた訳ですが。
シャセリオーはピュヴィス・ド・シャヴァンヌやギュスターヴ・モローにも影響を与えたと言われる画家ですが。ここが面白い所です。
というのは、シャセリオーの師はアングルです。そして、新古典主義派のアングルが結構嫌っていたのがロマン派の筆頭ドラクロワの色彩でした。シャセリオーはこの両者から影響を受け、この二人の作風を併せ持つ独自の画風を作り上げました。
そして、象徴派の先駆となるシャヴァンヌとモロー。これまた言ってみれば形態の画家と色彩の画家。
相対する物がひとつになり、そこからまた相対するものが生まれ…
また出て来ましたよ、弁証法が。
ま、これはまた長い話になりますからまた明日、という事にして。
で、いや、別にこの教会にシャセリオーしか見るものがないって訳じゃありませんよ。他のフレスコ画も美しいし、祭壇も見事です。
祭壇のキリスト生誕図、そしてその奥に重なるようにして十字架像。イエス様の生と死を一瞬で見通せる様になっています。祭壇の裏の装飾も凄い。
という事で一区切り、続きは次回。
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