2011年7月5日火曜日

パリに到着。

さて、サン・ドニ・ド・ラ・シャペル教会からサン・トーギュスタン教会を経て、やっとジャンヌ・ダルクはパリに到着しましたよ。

因みに前回は6/17と6/29でしたので、御興味ある方はそちらもどうぞ。

いや、サン・トーギュスタン教会辺りを通ったんじゃないかってのはおっさんの勝手な想像です。地理的に言ってあり得るんじゃないかと。
今日はちゃんと根拠がありますよ。それが何より証拠には(古いな)、ペール・スターク。


1380年にシャルル五世の城壁の一部に築かれた第二のサン・トノレ門は正方形で、一階の四隅に丸い塔を配していた。1429年9月8日、ジャンヌ・ダルクはイギリスの手からパリを取り戻す為に攻撃を試みた。しかし、水で満たされた堀に薪束で突破口を作るため、堀の深さを測っていた時にジャンヌは敵の矢に腿を射抜かれた。1591年1月19日、アンリ四世は、包囲されていたパリの人々への食料補給の口実の下、パリの町の扉を開かせる為に、製粉業者に偽装した部下を派遣した。「小麦粉の日」作戦は失敗し、カトリック派は門を固く閉ざした。ルイ十三世の城壁、又は「黄色い堀」の完成以降はサン・トノレ門は意味が無くなり、1636年に取り壊された。

ふっふっふ。百年戦争と宗教戦争がごっちゃになってますぜ、ペール・スターク。
ジャンヌ・ダルクの負傷の話の後に、普通に考えたらその続きが書いてあるのかと思ったら、何の前置きも無く、話はいきなり宗教戦争に飛んでますね。(人の事は言えないが。)

アンリ四世はブルボン王朝最初の王様で(それ以前はヴァロワ王朝。「ベルばら」ではジャンヌさんが「ヴェロワ朝の血を引く孤児」を名乗って貴族のマダムに拾われますね。)、プロテスタントでした。1562年から始まった宗教戦争は、アンボワーズの陰謀やヴァシー虐殺事件、サン・ヴァルテルミーの大虐殺、ギーズ公暗殺、国王アンリ三世暗殺等を経て、パリを包囲したアンリ四世のプロテスタント軍もなかなかパリを落とせず(カトリックにはスペインが、プロテスタントにはイギリスがバックについていた)、結局国王アンリ四世は1593年、自らもカトリックに改宗し、更に1598年にナントの勅令を発して信教の自由を認め、宗教戦争が治まる訳ですね。
改宗に当たって、アンリ四世は 〝Paris vaut bien une mess”(パリはミサに十分値する、つまりは改宗してでも手に入れるだけの値打ちがあるという事ですね)と言ったと伝えられます。

で、それは良いんですが、ジャンヌ・ダルクに戻ります。このサン・トノレ門でジャンヌが負傷した、という事でこれはつまり所謂「縁の地」って事ですね。ペール・スタークの他にもうひとつ、この縁の地を記念するプレートがありますよ。


このジャンヌのプレートのすぐ下が「ひぐま」というラーメン屋さんなんですが。ってそれはさて置き。で、ペール・スタークではジャンヌの負傷までしか書いてませんでしたが、その後、ジャンヌは近くの民家で手当てを受けたと言われてます。それがこの辺だったんじゃないかと。


いやぁ、金色ですねぇ、ジャンヌさん。ピラミッド広場にある、1874年に作られたエマニュエル・フレミエさんの作品です。フレミエさんと言えば、6/30 アレクサンドル三世橋にも出て来てますし、モン・サン・ミッシェルの金色の大天使像も、4/28 の大天使ミカエル像も彼の作ですね。この金色のジャンヌ・ダルク像の石膏の型が、オルセー美術館の中二階、やはりフレミエ作のブロンズの大天使ミカエル像の近くにあります。

ところで、ジャンヌ・ダルクと言えば、1999年のリュック・ベッソン監督、ミラ・ジョボヴィッチ主演の映画が有名ですね。他にもルイーズ・ルネ・ファルコネッティ主演の「裁かるゝジャンヌ」、イングリッド・バーグマンの「ジャンヌ・ダルク」、ジーン・セバーグの「聖女ジャンヌ」とか。

他にも、合わせて確か6~7回位(だったかな?)映画化されてると思うので、どうでしょうね、DVD屋さん巡りをして、各映画を見比べてみるとか。

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