見事な石畳です。(甃とも書きますね。素敵な字です。)
こういう石畳はパリのあちこちに残ってます。
以前、パリに見えた方が、こういう石畳の型をとって、ローラーにその石畳の型をレリーフした物を作り、そのローラーの上で車のタイヤを回してみて(車は動かさず、駆動輪だけをローラーに乗っけて回すんですね)、タイヤの磨耗具合を検査する装置を作るという仕事をなさってた方でした。やっぱりあちこちの石畳を熱心に見てらっしゃいました。いろんな仕事があるんですねぇ。
ところで、この石畳、学生運動華やかなりし時代を生きた方には特別な感慨があるんじゃないでしょうか。昔、日本の歩道はコンクリートの正方形の敷石が敷き詰められてたんですが、学生運動の活動家さん達が、これを剥がして割って、そのコンクリートの塊を機動隊に向かって火炎瓶なんかと共に投げつけたんですね。
佐々淳行さんの「東大の一番長い日」には、学生達にこの投石用のコンクリート片を作らせないために、機動隊が大学周辺の敷石を剥がして回ったエピソードが紹介されてますね。その後コンクリート敷石は姿を消し、聞く所によると大量の敷石は埋め立てに使われたんだそうですが。
パリの敷石もまた、学生運動のバリケードや武器に使われました。今日のタイトル、「Sous les paves, la plage!」は1968年「五月革命」時代の標語で、「敷石の下は砂浜だ」英語にすれば「Under the setts, the beach!」という所でしょうか。日本では「敷石を剥がせば砂浜だ」と訳される事が多いですね。まぁ、確かに敷石を剥がせば砂浜というか、土の地面が出て来ますが、それだけの意味ではなく、「上から押さえつけている物を取り去れば自由になれる」という意味も含んでいました。パリ五月革命は、学生に限らず、当時のド・ゴール大統領の強権政治や管理体制に不満を持つ人々が立ち上がった事件で、まぁその後の議会解散、総選挙でド・ゴールは圧勝し、五月革命も下火になって行きます。
フレデリック・フォーサイス原作、フレッド・ジンネマン監督、エドワード・フォックス主演の映画「ジャッカルの日」は、右翼組織OASがド・ゴール暗殺のために雇った殺し屋「ジャッカル」を主人公とした映画でした。何で暗殺の対象になったかと言うと、ド・ゴール大統領がアルジェリア独立をあっさり承認しちゃったからですね。こんな所も、五月革命の言うド・ゴールの強権政治、独断専行の実例なんでしょうか。
五月革命の起こった1968年前後、日本でも東大、日大を中心として全共闘が結成されていきますが、それまでの学生運動は、戦後すぐは共産党傘下の「全学連」が主流であった事でも判る様に、その全学連の組織を引き継いで60年安保闘争を闘った主力が「ブント(共産主義者同盟)」であった事でも判る様に、左翼勢力に牽引された学生運動だったのですね。
ところが全共闘の時代になると、様子が違って来ます。全共闘は、東大なら医学部の、インターン制度や、それに代わって政府が打ち出した登録医制度に対する反対運動、日大なら莫大な使途不明金に対する追求運動が出発点であり、つまりそれ自体は大学や教育の腐敗を暴く、或いは改善する為の運動でした。そこに新左翼各派が、言わば「乗っかった」訳ですね。全共闘それ自体は(新左翼勢力が主力になって行ったとは言え)共産主義運動ではありませんでした。
パリ五月革命もまた、共産主義主導ではなく、「Defense de defendre」(禁止を禁止する)という標語にも見られる様に、管理社会に対して自由を要求した解放運動でした。だからこそ、上から押さえつけてる敷石を取っ払って、自由な砂浜にしたかったんですね。
ところで、日本ではデモ隊に投石用の石を作らせない様に敷石を剥がしましたが、パリでは、同じ理由で敷石の上からアスファルトを被せました。ところどころ、剥げたアスファルトの下から敷石が覗いている所が結構あります。
パリのアスファルトの下は敷石。敷石が入っている分、普通のアスファルト道路よりも硬いので、パリでマラソンをすると、足に負担がかかるんだそうです。思わぬ弊害ですね。
Sous de l'asphalte, les paves, sous les paves, la plage.
更なる管理に、自由は更に遠退いたって所でしょうかね。
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