2011年6月12日日曜日

もうひとつ「Pave」繋がり。

さて、また本来の敷石の方の「Pave」に戻ります。

画像はバスティーユ広場です。フランス革命が始まった場所として有名ですね。1789年7月14日、バスティーユ牢獄が襲撃され、革命が始まります。まぁ、その前に市民軍はまずパリ市役所で市長に談判して三百六十丁の銃を調達してますし、更にアンヴァリッドにも押しかけて、とうとう三万二千丁の銃と大砲を手に入れてます。ところが銃や大砲に使う火薬の大部分はバスティーユ城砦に移されていたのですね。火薬を手に入れる為、そして専制政治の象徴であるバスティーユを破壊して収容されている囚人を解放する為、市民軍はバスティーユに向かったのでした。

で、現在のバスティ-ユ広場の真ん中には記念碑がある訳ですが、実はこれ、1789年のフランス革命の記念碑じゃありません。これは1830年の七月革命の記念碑ですね。4月10日にも書きましたが、ナポレオン戦争後、一時的に王制が復活していたフランスで、再び革命が起こってルイ・フィリップの立憲王制が始まったのが1830年です。
その記念碑の後ろには新オペラ座、「オペラ・バスティーユ」が写ってます。これは1989年のフランス革命二百周年のときに造られましたね。

で、話を戻して、バスティーユ。毎度お馴染みペール・スターク。
1370年4月22日、パリ長官ユーグ・オブリオはパリの東方面を守る為の城砦の礎石を置いた。シャルル五世の四つの塔、そしてシャルル六世のものが加えられ、アンリ二世時代には城外に向けた稜堡が造られた。これらの塔には、バスティ-ユを王制下の専制政治の象徴と見做す元となった国事犯用の牢獄が置かれた。1789年7月14日、七人の囚人が凱旋のうちに救出された。
サン・アントワーヌ通りは城砦によって塞がれており、パリ市の出入り口は北側のバスティーユ通りのサン・アントワーヌ門に置かれていた。この門は1671年にブロンデルによって凱旋門形式で再建されたが、1778年に取り壊された。

記述が年代順になってないじゃないか。読みづらいぞ、ペール・スターク。で、1671年に再建されたと言う事はその前に壊された筈だろうに、その事が書いてないぞ、ペール・スターク。で、これじゃ1778年以降は門が無かったみたいに読めるけど、1789年頃に描かれたバスティーユ風景のデッサンには門が描かれてるぞ、どうした、ペール・スターク。

まぁいいんですけど。何で取り壊されたかというと、パリの町が拡張するにつれ、このブロンデルの門は防衛の役に立たないばかりか交通の邪魔になる様になってしまったからですね。1784年から1791年にかけて新しい城壁が造られました。この新しい城壁というのは防衛と言うよりも、入市税の徴収所で、「La mur murant paris rend paris murmurant」(パリを取り巻く壁はパリにぶつぶつ文句を言わせる)なんていう早口言葉みたいな駄洒落が生まれたとか。

毎度脱線してますが。で、どこが「敷石」(Pave)の話かと言うと、現在のバスティーユは砦ではなくて広場なんですが、砦の跡があるんですね、これが。勿論、建造物が残ってる訳じゃありません。バスティーユ広場の南西側、rue Saint Antoine(サン・アントワーヌ通り)からrue Henri Ⅳ(アンリ四世通り)にかけて、広場の石畳に模様みたいな物があります。
これは昔、バスティーユ城砦があった位置を表しているのですね。グーグルマップの航空写真でも見えますから、興味のある方は見てみて下さい。(まぁ、いつか書いた沖縄・嘉手納基地のバットマンの基地みたいな感じで探して見て下さい)

さて。勿論建造物が残ってる訳じゃないなどと書きましたが、実はこのシャルル五世の城壁の前のフィリップ二世の城壁は、一部現存してますよ。これもおいおい紹介したいとは思ってるんですが。宿題多すぎだな、こりゃ。ま、焦らず、気長に行きましょう。

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