さて本日はパリ北部、ポルト・ド・ラ・シャペル近くにある教会にジャンヌ・ダルクが残した足跡のお話。
パリ北部、おっさんが古着屋歩きをしたり、安い洋服屋など覗いて歩く地区Barbes-Rochechouart駅からそう遠くない所に、サン・ドニ・ド・ラ・シャペル教会があります。
ここには元はパリの守護聖女聖ジュヌヴィエーヴが建てた教会がありました。聖ジュヌヴィエーヴについては、ピュヴィス・ド・シャヴァンヌがパンテオンの壁画に描いてますし、トゥルネル橋にはこの聖女の像がありますね。
現在の教会は12世紀建築、世紀の明けた1204年に完成してます。1204年といえば、フランスの西側一帯をイギリスとフランスで取り合ってたんですが、フランス国王フィリップ二世がノルマンディーを取り返した年ですね。この、領土を互いに取った、取られた、取り返した、とやる度に恨みが積もって行って、これが百年戦争の火種になります。百年戦争は王位継承問題やフランドル地方の羊毛産業の利権など、色々な火種はありましたけど、つまる所領土争いの延長線上にあるんですね。
そして1337年に百年戦争勃発、序盤に押され気味だったフランスを救ったのがベルトラン・デュゲクラン(佐藤賢一さんが「双頭の鷲」で書いてますね)でした。そしてデュゲクランの死後、またやられっ放しになっていたフランスを救った百年戦争後半の英雄がジャンヌ・ダルクでした。
王太子シャルル(後のシャルル七世)に仕え、劣勢を跳ね返す原動力となりながら、徹底抗戦派のジャンヌは和平に傾いたシャルルによって疎んぜられ、遂には見捨てられてしまうのですね。
当時、パリの街はイギリス同盟軍のブルゴーニュ派に制圧されていました。これをすぐにでも武力で取り戻すべしというジャンヌと、とりあえずイギリスと和議を行い、その過程でパリの事も何とかしようとするシャルルとの間には温度差がありましたが、ともかくジャンヌはパリを取り戻すべく、パリ郊外サンドニの町に陣を敷きます。そして1429年9月7日、サンドニを出陣したジャンヌはこの教会に立ち寄り、祈りを捧げ、聖体拝領の儀式を受けています。
そしてこの教会にはジャンヌ・ダルクの銅像がありますね。他にもパリの街には独立したものだけで立像が一つ、騎馬像が二つ、プレートが一つ、その他教会の中とか装飾の一部というだけの物も含めればもっとありますが。
この時はパリ奪還は成りませんでしたが、この後もジャンヌは戦い続けました。そしてパリの北にあるコンピエーニュの戦いで敵の捕虜になったジャンヌを、シャルル七世は救出しようとはしませんでした。このときシャルル七世は「小娘一人の命で済むなら安いものだ」と言ったとか。
そしてジャンヌはイングランドの息のかかった裁判長代理ピエール・コーション司教が取り仕切る宗教裁判の末に火炙りの刑になります。当然、これは公正な裁判ではありません。というか公正な裁判をする訳が無いですね。イギリスとしては、ジャンヌ・ダルクに聖女になって貰っちゃ困ります。例えば公正な裁判をしたとして、万が一にもジャンヌが聖女、神様の使いという事になってしまったら、そのジャンヌを相手に戦争をしたイギリスは立場が無くなってしまします。神様と戦争した様なもんですからね。
そんな訳でジャンヌは火炙り、シャルル七世は知らん顔。シャルルがルーアンを解放したのが1449年、宗教裁判のやり直しを命じたのが翌50年。異端の濡れ衣は取り除かれましたが、ジャンヌが正式にカトリックの聖女として認められたのはやっと1920年の事でした。
そんな訳で、ジャンヌ・ダルクの一生も、このブログ一回分ではとても書き切れませんので、おいおいに。続く。
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