2012年1月14日土曜日

またかい。

最近出張ネタ多いな。ま、おっさんとしてはいろんな所に行けて楽しいんですけど。もっと時間に余裕があれば尚良いんだけどな。いやいや、贅沢は申しますまい。
今回は南仏モンペリエ。


モンペリエは古くからの大学町で、特に医学部が知られてます。パリの医科大学と肩を並べるレベルだとか。もともと1220年に医学校としてスタートして、その後法学部が加わったのが1289年、これをもってモンペリエ大学の発祥とする訳ですね。そしてこのモンペリエ大学で医学を学んだのがノストラダムスでした。

今回は大学の仕事じゃありませんが。高校です。


とはいってもこっちの高校って、選択科目が結構あったり、その科目の選択によって空き時間がぽっかりできちゃったりとか、日本の感覚では大学に近いですね。まぁ、今の日本の大学の教養課程は旧制では高校に相当する訳ですから、似た様なもんか。

高校に入ってすぐの所にはこんなプレートが。


コレージュ・テクニック・ミシュレ校の生徒にして後に教師、抵抗運動の英雄、1944年1月ミッテルバウ・ドーラ強制収容所に連行され死亡したルネ・ドゥヴィックに捧ぐ

こういうプレート、本当にあちこちにあります。こういう職員や学生の名を記した記念碑が各学校や職場に、過去を風化させない様に、悲しみを忘れない様に、設置されてるんですね。
日本の職場や学校にこういうプレートを取り付けたらどんな反応が返って来るんだろうか。

「この悲しみも怒りも、忘れてはならない!それをガルマは死をもって我々に示してくれたのだ!我々は今、この怒りを結集し、連邦軍に叩きつけて…」

いや、違うから。

そういえばモンペリエは普仏戦争に出征して亡くなった印象派の画家、フレデリック・バジルの出身地でもありますね。印象派の画家としてはバジルはあまり名を知られてません。それもその筈、バジルは第一回印象派展が開かれる前に普仏戦争で戦死してます。でも、バジルは印象派(当時はまだそう呼ばれてませんでしたが)の芸術家達と共に製作し、芸術を語り合い、いつか作品が世に出る事を目指した仲間であり、印象派のメンバーの一人に数えられてます。
普仏戦争とコミューンの乱が無かったら、印象派展はもう数年早く開かれていただろうと言われてますね。

もうひとり、モンペリエ出身の男の話を。ジャック・クールです。


ジャンヌ・ダルクの主君であるシャルル七世の御用商人であったジャック・クールは宮廷で使われるあらゆる物を納入していたそうですね。もともと名家で金持ちでもあった様ですが、更に大きな富を築き上げ、また国王シャルル七世に対してはほぼ無償で資金援助を行い、その代わりに国王から様々な特権を認めて貰い、それを利用して益々事業を拡大してのし上がった人です。このクールの隆盛の下、貿易の拠点としてモンペリエの町も栄えます。モンペリエの町は繁栄を続けますが、クールはその躍進振りが周囲の反感を買い、彼に恨みを持つ人達から訴えられて、裁判の結果、財産没収、投獄の憂き目を見る訳ですが。

おっさんが見付けたのは銅像でしたが、どこかに石像もあるらしいですね。

さて、更に町を散策、といえばおっさんが目指す物は決まってますね。前もってチェックしてありましたよ。サン・ピエール聖堂です。


パリのノートル・ダムにも似た正面に、二つの丸い塔がついてるのがここの特徴なんですがね。残念ながら修復工事中の様です。中に入ってみたらミサの真っ最中で、これまた残念ながら、あちこち写真を撮って回る事もできませんでした。取りあえずお祈りの邪魔にならない程度に、ちょっとだけ。


ま、しょうがないですね。お祈りの人達に混じって席について、じっくり眺められただけでも良しとしましょうか。
聖堂を出て少し離れた所を、ベーダーちゃんがひっそりと侵略してました。


随分遠慮深いじゃないか。

さて、おっさんは更に街歩きを続ける訳ですが、この辺でちょっと一息。続く。

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