さぁ今日はパリの二つのホテルをご紹介しましょうかね。別に宣伝料貰ってる訳じゃありませんけど。
フランス第二帝政時代に建てられた二つのホテルが、オペラ座のすぐ隣のスクリブ通りを挟んで建っています。
で、ここでちょっと待った。第二帝政ですね。という事は「第一」帝政もあった訳で、これは当然ナポレオンが皇帝であった期間です。
フランスの政治形態は、大雑把に言えば(といっても長いけど)
1789年 フランス革命。ルイ16世やマリー・アントワネットが処刑されましたね。1791年、ルイ16世は憲法を認めるサインをし、フランス最後の絶対君主、そしてフランス最初の立憲君主となりました。その後1792年には王権の停止、1793年の処刑となる訳です。
「国王」というものが無くなり、フランスは第一共和制へと移行します。ここで初めてフランスは「共和国」となったのですね。王政を倒した共和派も一枚岩ではなく、内部にいろいろ対立を含んでいました。空中分解寸前だったフランスに現れた強力なリーダーがナポレオンです。混乱の時代には民衆は強いヒーローを求めるのですね。(良いか悪いかは別として。)
このナポレオン時代(1804-1814)が第一帝政ですが、共和制下の混乱を収め、国民銀行設立やナポレオン法典の制定(日本の民法にも受け継がれています)等、国内政治では評価は高いですけど、ヨーロッパ中を荒らしまわった侵略者という見方も根強くありますね。このナポレオン戦争の戦後処理のウィーン会議を舞台にしたオペレッタが名作「会議は踊る」。美しい映画でしたねぇ。
ナポレオンが失脚すると、一時的に王政が復活します。反動ですね。その後、復活ナポレオンの百日天下を挟んで第二復古王政。
1830年には王政に対する不満が爆発、七月革命が起こり、議会によって新国王に指名されたルイ・フィリップの「七月王政」、「株屋の王」とまでいわれたブルジョワ偏重政策は1848年まで続きます。
この七月王政が倒されたのが1848年二月革命です。民衆が諸権利を求めて蜂起し、やがてこの動きはヨーロッパ中に飛び火して、「ウィーン体制」(ヨーロッパ各国が結託してフランス革命以前の状態を基準とし、民主化勢力を抑圧していた)を揺るがす事になります。この「ウィーン体制」はクリミア戦争(そう、あのナイチンゲールの)で崩壊しますね。
二月革命で始まった第二共和制下、大統領となったのがナポレオンの甥、ルイ・ナポレオンですね。共和国政府への不満や、社会の安定を求める民衆は、またもや強力なヒーロー・リーダーを求め、ルイ・ナポレオンはクーデターで政権を取り、国民投票でも認められ、1852年、皇帝ナポレオン三世となりました。やっと出て来ましたね、第二帝政。取りあえずここまでにしときましょう。
で、このナポレオン三世皇帝時代にパリの大改造をしたのが当時のセーヌ県知事、オスマン男爵でした。それまでの、無計画に発展した、裏路地ばっかりのゴチャゴチャしたパリの街に大通りを通し、建物の高さも制限を設けて均一にした現在のパリの街の基礎はここで作られたのですね。
この時代には現在のオペラ座も建てられましたが、これを含むオペラ地区の大再開発計画も行われました。ル・グランドホテルとホテル・スクリブは何れもこの時代の建築ですね。
まずは「ル・グランドホテル」。
1867年の万博に向けて、当時としては驚くべき800室、70の浴室を持っていたこの超高級ホテルは、内装にも当時の一流の画家彫刻家が起用され、ダイニングルームや巨大なレセプションホールが造られ、中庭は素晴らしいガラス屋根で覆われました。内部に電報局や煙草屋も設置され、1862年7月14日、ナポレオン三世皇妃ウジェニーと、銀行家ペレールによってオープン式が行われました。当時はスクリブ通り、オベール通り、カプシーヌ大通りにそれぞれ入り口がありました。オープンするとすぐに大評判となり、1867年のパリのガイドブックには、「アメリカ人観光客の一番の散策スポットはカプシーヌ大通りだ。彼らは皆ニューヨークからグランドホテルにやって来る」とあるそうです。またこのホテルは「(全込み)フル料金」制を提供した初めてのホテルであり、様々なサービスを受けながら宿泊客の予算も尊重されたのでした。充実した近代的なサービスを受けた宿泊客は、容易に「う~ん、もうちょっと滞在しようかな」なんていう気になったものです。 と、お馴染み、パリの歴史を記した「ペール・スターク」には書いてありますけど。何故かあの有名な「オペラの間」の事とかは書いてませんね。まぁ観光ガイドじゃないからしょうがないか。
そしてスクリブ通りを挟んではす向かいの「ホテル・スクリブ」。
1861年のオペラ地区再開発計画に含まれるホテル・スクリブは、1863年からは、1833年創立の、フランス競馬振興会「ジョッキー・クラブ」が置かれ、(ここで一言。この頃の競馬は上流階級の優雅な遊びです。)二階(フランス式では一階)の豪華なサロンが五十年間使われていました。地上階は「グランド・カフェ」で、金色の室内装飾、赤いソファ、12台を下らないビリヤードテーブル、そして数々の個室が社交界の人々を迎えました。地下には「インド風サロン」がありました。1895年12月28日、リュミエール兄弟は「リヨンのリュミエール工場からのお出かけ(?だと思います。この言葉の意味からすると工場からの出荷を意味してもおかしくはありませんが。)」を含む、世界初の10本の映画をこのサロンで上映しました。「この機械が一般に行き渡れば、そして、誰もが、それぞれの親愛なるものを静止した写真だけでなく、その動き、行動、一つ一つの仕種、そして唇の動きに見出される被写体が発する言葉を、記録に収める事ができる様になったら、最早「死」は絶対的な物ではなくなるだろう」(と、誰が言ったのかはここには記されてません。意外と抜けてるんですよね。ペール・スターク。)また1896年1月13日、レントゲン博士はここでエックス線の実験を公開しました。
初のエックス線公開実験ねぇ。そうでしたか。個人的にはやっぱり、ここが映画発祥の地かぁ、という思いが強いですが。
当時は当然無声映画ですね。チャップリンは無声映画時代の人で、当時段々と主流になりつつあったトーキー映画に最後まで抵抗してました。チャップリンが初めて撮ったトーキー映画の中では、彼は声だけは披露してますけど意味のある台詞は言いませんでしたよね。タモリのハナモゲラ語?みたいな。個人的には藤村有弘さんの「国籍不明語」も大好きです。齢がばれるな。とっくにばれてるか。
日本では「活動写真」なんて呼びましたね。徳川夢声さんとか、弁士さんたちの独特の口調の語りを聞きながらの砂嵐の白黒画面。(ってホントは何歳だ?)因みに今も使われている「彼氏」という言葉を発明したのは夢声さんだそうですね。
無声の活動写真からトーキー映画へと時代が移って行く中、活動弁士さん達は舞台とかラジオ、そしてテレビへと活動の場を移して行く訳ですが、その一つが「漫談」ですね。今ならきみまろさんですか。おっさんにとっては「漫談」と言えばウクレレ漫談で一世を風靡したあの牧伸二さんですねぇ。「やんなっちゃた節」は今でも歌われてますしね。(そうか?)子供の頃、「○○テレビ寄席」とか、おじいちゃんに抱っこされて見てました。「いろいろあらぁな」の東京ぼん太さんとか。ゼンジー北京師も、ケーシー高峰さんも、トニー谷さんも出てましたね。早野凡平さんの「ホンジャマー、エー、ナポレオン」もそうでした。
脱線した話を強引にフランスに戻そうとしてないか?ま、いっか。
お後が宜しい様で。
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