2011年8月5日金曜日

「鳩時計だよ。」

懐メロから今度は古い映画に飛びましたねぇ。

「第三の男」は1949年か。


いや、ここはウィーンのプラーター公園じゃありませんよ。
パリのチュイルリー公園です。

「チュイル」とは屋根瓦の事ですね。「チュイルリー」は直訳すれば「瓦製造所」です。本当にこの辺で屋根瓦を焼いてたそうです。

ところで、フランス語で「チュイル」と言えば運の悪い偶発事故の事ですね。
ほんのちょっとだけ車を離れただけなのにしっかり駐禁をとられてたとか、いつもはしっかりシートベルトをしてるのに、うっかり忘れた時に限って一斉取り締まりに引っ掛かったとか。
道を歩いてたら、壊れた瓦が屋根の上から落っこちてきて、それにあたって怪我したとか。

そしてやっぱり思い浮かぶのは「ベン・ハー」ですねぇ。「ベン・ハー」はサイレント時代まで含めれば4回映画化されてますが、やっぱりおっさん世代には1959年のチャールトン・ヘストン版です。
石の手摺が崩れて落ちただけで、一家全員連行ですもんね。不運な偶発事故です。

で、話を戻しますが。

このチュイルリー公園に遊園地が出てます。分解・組み立て式の移動遊園地で、ここには夏休みと年末・年始に来ますね。すべてのアトラクションが分解・組み立て・移動可能。トレーラーを連ねたキャラバンであちこち移動しながら営業するんですね。


射的屋さん。子供達が小さい頃、よくこれで縫いぐるみとか取ってあげたりしたなぁ。おっさんは射撃結構得意でした。


これもよくやったし。結構得意だったし。
「高校の頃クレーンゲーム部のキャプテンだった」ってのは「あすなろ白書」のネタでしたかね。


バスケットボールゲーム。
緑間っちにやらせてみたい。


アヒル釣り。これは子供達用。


これもシンプルな大滑り台。


定番のお化け屋敷。


電動カート…とでも呼ぶのかな。

ひと遊びして、ちょっと一休みならこんな所で。


さて、今度は大掛かりな奴を。こんなのも分解・組み立て式。数日間でセットアップします。


ウォータースライダーなんかもあります。


これ、日本ではなんて言うんだろうか。アトラクションの名前は「レインボウ」ですが。


そしてこれ。逆バンジーとでも言いましょうか。パチンコで小石を飛ばすみたいに、人が乗ったカプセル(?)を…


上空へ向けて発射!

いやぁ、こんな物まで移動式ですからねぇ。メンテナンスとか、安全基準とか、どうなってるんだろうとは思いますが、ま、これがフランスの伝統ですからね。野暮は申しますまい。

フランスって、日本で考える様な所謂「遊園地」があんまり無いので、子供達も、若い恋人同士なんかも、結構こういう移動遊園地を楽しみにしてたりします。

でもなぁ。やっぱりこういうのにはあんまり乗る気がしない。

2011年8月4日木曜日

♪桑港のチャイナ街~♪

いや、昨日の懐メロからついこっちに飛んじゃいまして。

渡辺はま子さんですねぇ。昭和25年ですか。
「シナの夜」「何日君再来」「蘇州夜曲」「ああモンテンルパの夜は更けて」等々。
特に「モンテンルパ」に関しては、日本人戦犯がフィリピンで作詞・作曲し、はま子さんが歌い、日本政府もフィリピンに働きかけ、慰問コンサートを開いて減刑・釈放を訴え、実際フィリピンにいた日本人戦犯は釈放されたそうで。
戦後すぐの、あんなに大変な時代でも、日本にはこんなエネルギーがあったんですね。
今の日本人も見習わなきゃね。そして、歌の力は偉大です。

で、この「桑港」じゃないんですが、チャイナタウンのお話です。

パリ最古の中華街はノートルダム寺院近く、モベール・ミュチュアリテ辺りだそうです。
始めは何件かの中華料理屋が集まっただけだったのが、序々に発展して、小さいながらチャイナタウンを形成していったと言われてますね。


現在では他に大きなチャイナタウンも形成されて、この辺りの店もどこかへ移転して行ったのか、嘗ての面影は有りません。やはり中華料理屋とアジア系食料品店が何件か集まっている程度です。
でもまぁ、中華料理を食べて、こんな小公園でのんびり、とかカフェのテラスでお茶でも、とか、いい雰囲気の所ですよ。


ところで、この広場にはこんな歴史もあった様ですね。


この名前(訳注:モベール)は、1161年のサント・ジュヌヴィエーヴ修道院のオベール神父の名が訛ったものと思われる。ソルボンヌができる前は、この修道院は教育の中心地だった:ドイツのドミニコ派修道士、「ル・グラン」と呼ばれたアルベールが教鞭をとった。中世の終わり頃にはパンの市場であり、その後、特に16世紀において、公開処刑の場となった:大勢のプロテスタントが(この中にはヒューマニストの書店主エティエンヌ・ドレなどもいた)生きたまま火炙りにされた。19世紀には、この広場は無数の職人達に場所を提供した:古着屋、藁椅子張り職人、余り布を繋ぎ合わせるパッチワーク職人、シケモクを集めて煙草屋を営む屑拾い、川泥を漁るRAVAGEUR達(訳注:これはどう調べても意味がわからないので悪しからず。RAVAGEURというのは「乱暴者」とか「害虫」とかいう意味なんですが、比喩として使われているのか…)。19世紀に様変わりしてしまったが、フレデリック・ソトン通りの角には古い家も幾つか残されている。

で、ペール・スタークのイラストの角度で写真を撮ってみました。ちょうどノートル・ダムの尖塔が見えてますね。


チャイナタウンの話は何処へ行ったんだ?という気もしますが。
まぁ細かい事は良いじゃないですか。

2011年8月3日水曜日

♪アカシアの雨にうたれて~♪

古いですねぇ。昭和35年ですか?

こういう古い歌とか、他にも例えば、今、日本でサマータイム導入云々の議論がある様ですが、昭和20年代の一時期、日本でもサマータイムやってましたよね、なんて言うと、「何でそんな生まれる前の事なんか知ってるんですか?」なんて聞かれる事があります。

そりゃ本で読んだりテレビで見たり、最近ならネットで拾ったネタだったり。
大体、生まれる前の事ですけどフランス革命は1789年だと知ってますし、大化の改新は645年だと知ってますよ?

で、それはさて置き。
結構パリのあちこちにアカシアが咲いてますよ。


歌詞の通りに花弁がひらひらと…でもこれ、違うんですってね。「アカシアの雨が止む時」に歌われているのはニセアカシアだそうで。明治初期、日本に「アカシア」として輸入された街路樹は「ニセアカシア」だそうです。「アカシアの蜂蜜」として売られているのも、大抵はニセアカシアの蜜なんですってね。あの、葡萄の房みたいに垂れ下がる、天ぷらにして食べる花ですね。

「アカシアの雨が止む時」
作詞:水木かおる 作・編曲:藤原秀行 歌:西田佐知子

1 アカシアの雨に打たれて
  このまま死んでしまいたい
  夜が明ける 日が昇る
  朝の光のその中で
  冷たくなった私を見つけて
  あの人は
  涙を流してくれるでしょうか

2 アカシアの雨に泣いてる
  切ない胸はわかるまい
  思い出のペンダント
  白い真珠のこの肌で
  淋しく今日も暖めてるのに
  あの人は
  冷たい眼をして どこかへ消えた

3 アカシアの雨が止む時
  青空さして鳩が飛ぶ
  むらさきの羽の色
  それはベンチの片隅で
  冷たくなった私の抜け殻
  あの人を
  さがして遙かに 飛び立つ影よ

で、この曲について色々調べてたら、

http://duarbo.air-nifty.com/songs/2007/07/post_5892.html

に行き当たりまして。
このブログの中で、この歌詞の中の「鳩」は主人公の魂で、「冷たくなった抜け殻」を残して飛び上がった、つまり主人公は死んだという解釈と、主人公は恋に破れて疲れ果てて、「冷たくなった抜け殻」を夢想する所までは行ったけれど、夢から覚めて現実に戻って、新たな一歩を踏み出す。その時に今までの自分の思いを解き放った、それが「鳩」の意味する所じゃないかという解釈が紹介されてました。

さぁ、作者の水木さんがどういう思いでこの詞を書いたのかは分かりませんが、どちらの解釈も成り立ちますし、その時の自分の状況に合わせて、どっちに解釈してもいい様な気もしますし。

で、この二つのほぼ逆の解釈から連想した物を二つ。

藤村操「巌頭之感」の中の一節。
『既に巌頭に立つに及んで、胸中何等の不安あるなし。始めて知る、大なる悲觀は大なる樂觀に一致するを。』
で、藤村氏は自殺しちゃう訳ですけど。

「明日のジョー」のラストシーン。
ホセ・メンドーサとの死闘を終えて、「完全燃焼」して「真っ白な灰」になった矢吹丈は果たして死んだのでしょうか?
後からできた劇場版アニメなんかでは死んだという前提で演出されてた様な気がしますが、原作の漫画の方では、ジョーはあくまでも「完全燃焼」したのであって、まぁ、読み様によっては死んだとも取れなくもない、といったニュアンスだったと思うんですが。

どうでしょう。
「巌頭之感」は明治36年、おっさんはまだ生まれてません。
「明日のジョー」は子供の頃読みましたが。

2011年8月2日火曜日

四つの「芸術」を繋ぐ橋。

日本のテレビドラマや、日本でも流行った韓国ドラマにも登場したそうですね、この橋。
だからここで記念撮影している日本や韓国の旅行者さんも多いんでしょうか。
車が一切通らない、歩行者専用の橋ですから、夏の夕暮れともなれば夕涼みの人で一杯です。


「ポン・デ・ザール(芸術の橋)」越しに見えるのはルーブル美術館です。
反対側を向けばフランス学士院。


学士院はアカデミー・フランセーズ、碑文・文芸アカデミー、科学アカデミー、芸術アカデミー、倫理・政治学アカデミーからなり、フランスの最高峰の学者さんたちが集まる所ですね。学士院の建物の裏には美術学校があり、これを運営するのが芸術アカデミーです。

ルーブルと、芸術アカデミー・美術学校という二つの芸術を繋ぐ橋ですね。

ところでこの橋、鉄骨と板張りの歩行者専用の橋で、下を向くと板と板の隙間からセーヌ川の水面が見えたりしてちょっと怖いんですけど。


この橋が繋ぐ物はもうひとつあります。橋の手摺りの金網にびっしりと取り付けられた南京錠。


新婚さんや恋人たちが、「ずっと一緒だよ」と取り付けた錠ですね。3/25の記事にもちょっと書きましたけど。あれはノートルダムの所でしたけどね。

最近は恋人や新婚さんに限らず、例えばイタリアの「トレビの泉」にコインを投げ込む様な感覚で、記念として錠を取り付けてく人もいる様です。
そして、南京錠を売るお兄さんもいますよ、ちゃんと。


毎度お馴染みの脱線はこの位にして、と。

この橋が繋ぐもうひとつの芸術の話です。「抵抗文学」ですね。第二次世界大戦中、フランスはドイツに占領されていました。そんな中で、ドイツに対する抵抗運動が起こります。


ジャック・ルコント・ボワネの思い出に捧げる
彼は解放の同志、抵抗運動の創始者にして、解放の時まで指導者であった。
この橋は、彼と同じ様に死や拷問の危険を冒しつつ闘った仲間達との非合法の接触の場所だった。
この場所で、ヴェルコールは彼に、ド・ゴール将軍に宛てた「深夜叢書」を手渡した。

ヴェルコールに関してはもうひとつの記念碑のほうに書かれています。


ヴェルコール(ジャン・ブリュレ)の思い出に捧げる
彼は、「海の沈黙」をもって1942年、「深夜叢書」の共同創始者となった。

そしてまた、ナチス占領下、その献身によって命の危険を冒してまで、フランス人の意識の中にその恒久性と名誉を維持する事を可能にした出版の作業員達の思い出に捧げる。

1942-1992

「この場所、世界で唯一にして最も輝かしい場所、思いを巡らせ、夢を育み、魂を昂らせた場所、ポン・デ・ザール。」
ヴェルコール「星への歩み」より。

ヴェルコールはピエール・ド・レキュールと共に、抵抗文学を掲載した「深夜叢書」を興しました。ヴェルコールとはペンネームで、本名はジャン・ブリュレ。1942年に「海の沈黙」を、1943年に「星への歩み」を書いて、「深夜叢書」から出版しています。
「海の沈黙・星への歩み」が岩波文庫から出てますね。「抵抗文学」の代表作です。

そして四つめの芸術。
「海の沈黙」は、1947年、自身もレジスタンスであったジャン・ピエール・メルヴィル監督によって、ハワード・ヴェルノン、ニコル・ステファーヌ、ジャン=マリ・ロバン出演で映画化されてます。尤もヴェルコール自身は映画化には絶対反対で、結局自主制作映画として撮られたそうですが。

当時若干30歳だったメルヴィル監督は、スポンサーも無い、人手も足りない、映画会社にコネも無い、最低な条件の中で映画を完成させ、またヴェルコールが選んだレジスタンスの闘士達の前で試写して、もし一人でも反対者がいたら公開禁止、フィルム焼却というとんでもない試練を乗り越え、やっと上映に漕ぎ着けます。

こういった、全てを自分と、少数の仲間達とで賄って映画を撮る手法は後にヌーヴェル・ヴァーグの若手監督達に引き継がれ、メルヴィルは「ヌーヴェル・ヴァーグの父」と呼ばれる様になりますね。
更に、それまで自作「恐るべき子供達」の映画化を誰にも認めなかったジャン・コクトーは、メルヴィルに、この作品を映画化することを依頼します。メルヴィルの才能と熱意に動かされたんですね。

ルーブル、アカデミー、抵抗文学、ヌーヴェル・ヴァーグ、四つの芸術を繋ぐ接点、まさにポン・デ・ザール、芸術の橋を名乗るに相応しい場所ですね。

2011年8月1日月曜日

丈夫で長持ち。

フランス人のお年寄りに「お元気ですねぇ」と声をかけると、「ええ、ポン・ヌフみたいにピンピンしてます」なんて答えが返って来たりします。

この橋は、まぁ修復や補強なんかはされてるでしょうけど、基本の骨組みは17世紀のままなんですね。なのでポン・ヌフは「丈夫で長持ち」の代名詞。
「ポン」は橋の事。「ヌフ」は新しいという意味です。「新しい橋」ポン・ヌフ。
オールド映画ファンの方は「ポン・ヌフの恋人」なんぞを思い出されるかも知れません。


さて、いきなりこれです。ペール・スターク。


1578年5月31日、アンリ三世がこの橋の礎石を置いた。市民の戦い(訳注:宗教戦争)によって工事は中断され、1599年に再開、1606年7月8日に完成した。バティスト・アンドゥルーエ・ド・セルソーとピエール・デ・ズィルによって設計されたこの橋は、12のアーチに支えられた、278メートルの長さを持つパリ最大の橋である。そしてまた、この橋は途中に建物が建っていない初めての橋でもあった。1608年には、右岸から二つめのアーチの部分に、ルーブルとチュイルリーへと水を供給する汲み上げポンプが設置された。橋の表面はキリストとサマリア人のブロンズの浅浮き彫りで飾られていたが、これは1813年に失われた。1635年、ルイ十三世はドーフィーヌ広場の向かいに彼の父(訳注:アンリ四世)の騎馬像を建てさせたが、1792年に壊されてしまい、1818年にルモによる新しいアンリ四世像が建てられた。この時代の、通りも狭く、空きスペースがほとんど無い街の中で、この広い橋は大道芸人やいかさま賭博師にとっては思わぬ幸運で、彼らは橋の開通と同時にここに集まって来た。はじめに屋外で小喜劇を演じていたタバランの一座、そしてあらゆる種類の香具師、解毒・鎮痛剤売り、歯抜き屋、それにその他多くの行商人達がやって来た。

イタリアのフィレンツェやヴェニスに行った事のある方はご存知でしょうが、昔は橋の上に建物が建ってるのが当たり前だったんですね。そういう建物が無い、今までに無い「新しい」スタイルの橋なんですね。

「歯抜き屋」ってのも凄い商売ですね。昔は歯が痛ければ抜くしか無かったので、免許も試験も何も無い、ただ痛い歯を抜くだけの商売があったんだそうです。
そういう行商人や大道芸人にとっては、所々に半円形のスペースがあるこの橋はまさにぴったりでした。

文中にあるアンリ四世像。


これまた文中にあるドーフィーヌ広場はポン・ヌフのすぐ東側(上流側)にある広場で、こんな感じ。


落ち着いた、静かな所です。ところで、ポン・ヌフの西側(下流側)にもやっぱり広場があります。ヴェール・ギャラン広場です。


ポン・ヌフができるまでは、シテ島は現在ドーフィーヌ広場が造られている「王の庭」までしかなかった。現在のシテ島の先端は、シテにあった三つの小島を併せたもので構成され、新しい橋の中央土台部分となっている。「族長の島」と呼ばれた北の島は、三つのうち一番小さい、水車があった「棍棒島」によって東に伸びていて、「棍棒島」はその水車の力が貨幣を打ち出すのに使われた事から「コイン島」とも呼ばれていた。一番大きい南の島は、15世紀末、この島がユーグ・ビュローの所有だった事から「ビュロー島」と呼ばれた。1314年3月11日、テンプル騎士団の大師ジャック・モレとノルマンディー・テンプル騎士団の受勲者ギーがここで火刑に処されている。

物騒な歴史とは裏腹に、現在ではこの広場も市民の憩いの場です。ペール・スタークとは別に、ジャック・モレの事を記したこんなプレートもありますが、あんまり目に留める人はいない様ですね…


もうひとつ、この広場には記念碑がありますよ。


フランス・カナダ間の友情の証
モントリオールのセント・ヘレナ島産のこの岩の一片は、モントリオール万博開催に際してパリの町に贈られ、1967年4月27日、当広場に設置された。

ポン・ヌフとヴェール・ギャラン広場を隣のポン・デ・ザールから眺めるとこんな感じ。


橋の真ん中、木に覆われているのがヴェール・ギャラン広場です。
ところで、ヴェール・ギャランって、アンリ四世の渾名です。日本のガイドブックなんかでは「色男」とか訳されてるのが多いですけど、いろいろ調べてみたら、フランス語WIKIにこんな事が書いてありましたよ。

『Vert galant est une expression littéraire qui désigne un homme entreprenant malgré son âge.』

「『ヴェール・ギャラン』とは歳にも関わらず女に手の早い男を意味する文学的言い回しである」

歳なのに女に手が早い。ふむ。スケベジジイって事ですかね?
成程。そっちの意味でも「丈夫で長持ち」か。